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2013. 03. 23  
せせせ 星界の新刊が出たぞーーーーー!!! 
嘘じゃないもん、ホントだもん。私オオカミ少年じゃないもん。
ほらっ!

「星界の戦旗V 宿命の調べ」

いや~~長かったっすねぇ。みんな待ってた星界の続き。どれくらい待たれてたかって言うと、発売前からずっとAmazonのランキングベスト5に毎日食い込み続けて、発売された途端に堂々の一位獲得。


冗談でもなんでもなく、本気で私は思っていた。
もう生きてるうちに続きを読むことは出来ないかもしれない、と。
命ははかないものだから。
私も、あなたも、だれもかれも。命は不安であやふやで、明日が確かなはずも無し。
老いが迫り、心身が衰え始め、自分というものがどんどん磨り減っていく実感の中、ある種の心眼だけは冴えてゆく。若さに溺れていた頃には見えようの無かったことが見え始める。
運命、宿命というものは測りがたいということ。
逢うも逢わぬもさだめでしかなく、どうにもならない流れをただ受け入れるしか無いということを。

僥倖にして、物語の続きに巡り逢う事ができた。なんと幸運なことだろう。長生きはするものだ。
ありがたや、ありがたや。


朝に入手して、午後に爆速で読みきってしまったけど、内容については触れない。さすがにネタバレはヤバい。
ただもうひたすらに読み応えがあった。テンポが凄い。緊張感が凄い。とにかく勢いがある。
初めて星界の最初の一冊を手にとって読んだ時のような、清新で鮮やかな印象が蘇ったようで、吃驚した。
と同時に、ある種の確固たるイメージもまとわりついて離れなかった。
そのイメージがどういうものかは言わない。ネタバレとは違う意味で、今は伏せておくべきイメージだと判断する。ただ、今まで何度か見出してきた、ある一定に普遍的なイメージだった、とだけ。


そしてついに
「第一部 完結」
である。色々と感無量。

さだめが許すものならば、第二部にもどうぞ巡り逢えますように。ひたぶるに祈るのみ。(-人-)(-人-)

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2013. 01. 13  
気がつけば今年もすでに半月過ぎた。どうにも冬ウツが酷くてボーゼンとしている。
そんななか、唯一気分を上向きにしてくれたのが「まおゆう」の原作だった。

今季の新作アニメのひとつ、「まおゆう 魔王勇者」
この原作は、2ちゃんねるのスレッド「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」を利用した即興小説ということらしい。
wikiとしてひとまとめになっているものを数日がかりで読んだ。まさかこれほどのボリュームとは思わなかった。そもそもタイトルがタイトルだし、キャラには名前すらついてない。「勇者」「魔王」「メイド長」などとしか書かれてないのだ。てっきり、サクッと読める軽いノリの作品だとなめてかかっていた。

とんでもなかった。
蓋を開けてびっくり。確かに語り口調は軽妙だ。なにせ、地の文が無いのだ。キャラのセリフだけで延々と続くのだ。ごくたまに短い擬音がつくばかり。
なのに、そこに語られる内容は、軽妙どころではなかった。

「世界」の解説なのである。

普段、人間なんてものは、「世界がなにでできてるか」なんてことは思いもしないで生きている。
そんなことよりやるべきことはいくらでもあるし、日々の生活は大変だし、目の前の問題だけでも手に余り、やれることしかやれないし、知りたいことしか知りたくないし、理解できないややこしいものは見て見ぬふりでもしてうっちゃっておかねば、頭がおかしくなって死ぬ。そういうものなんである。
おおよその人にとって「世界」のことなど、そのほとんどがどうでもいいことであり、知らなくても考えなくても生きていけることである、と処理されてしまっている。

戦争が悪なのは知っている。
悪は滅びるべきである。
愛はなにより大事。
でもお金も大事。
人殺しはいけないこと。
人は自由であるべき。奴隷なんてダメ絶対。
悪魔? そんなものは居ないけど、ゲームとかでは敵だよね。いくらでも倒していい相手。

いろんなことを、こんな感じで「なんとなく」思いつつ、日常を私たちは生きている。
だって、そういうのが「常識」だから。


まおゆう、というお話は、しょっぱなの第一章から、そういう常識をグリっとまとめてスコーンと一発で場外ホームランにしてしまうのだった。
そして、ただちに示す。まおゆう、という物語が何を目指しているのか、そのテーマを。

「世界は実はこういうものだ。ひどいものだ。でも、そんな世界とは違う、まったく新しい世界が見たい。今まで誰も知らなかったような、誰も見たことのない、丘の向こうにある新しいものを見たいのだ」

こんなことをやられては冒頭から拍手喝采せざるを得ない。ファンタジーの器で書かれているが、この志はSFそのものだ。
常識や既成概念をひっくり返して打ち砕き、その奥にある真相に気づかせ、新奇を提案すること。私が最も愛する「センス・オブ・ワンダー」をやりますよ、という宣言だったのだ。

こりゃぁたまらん、ありがたくって涙が出ますぜぃ、と舌なめずりしながら猛然と読み始めたわけだった。
が、読んでも読んでも終わらない。長い。長い長い長い。そして面白い。
なにせ、世界を塗り替えちまおうという壮大なお話だ。簡単に終わるほうがおかしいのだからこれはもう仕方ない。
数日を夢中になって過ごした。物語は美しく収束し、申し分なく終わっていった。
深く満足。これこそが、まさにこういうものが、今の私が読みたかったもの、という感慨。

地の文無し、ネット上のまとめだったので、イラストのたぐいも皆無。
そこが逆に良かった。とてもイマジネーションが刺激された。会話しかないのに、豊かな情景が広がった。
かつて、ビデオゲームというものが描画力をほとんど持っていなかった頃、僅かなデータや動きだけで、無限に近い壮大なビジョンを想像することが出来た、あの頃の感動に似たものを味わえた。

なので、今ちょっぴり困っている。アニメとして映像化されたからだ。
映像になるからには、簡素ゆえに逆に豊かだった原作とはまったく違う表現が必要になるわけで、それを受け取る側にも、豊かな映像と表裏一体の犠牲が強いられる。想像の自由が奪われる、という犠牲である。
あるいは、自分独りで培った心の中のイメージが現実の視覚情報によって上書きされて消滅させられるという犠牲である。

しばらくは、自分だけの好き勝手なイメージで楽しんでいたい、という気持ちもある。
が、さらに困ったことに、アニメの第一話の出来が良かったのだ。面白かったのだ。続きが見てみたいのだ。
こりゃ困った葛藤なんである。
特に、最萌え激萌えキャラ、なぜ銀縁メガネをかけていないのだ! と怒鳴りたくなるほど見事な仕上がりの知性派&ドSキャラ「青年商人」に声がついて動くところを見ないわけにはいかない。CV担当は神谷浩史とな。完璧過ぎる。えっ、「軍人子弟」は鈴木達央? 美味しすぎる。嗚呼やっぱり見ないわけにはいかない。じゅるっ。

並の原作とはわけが違う。アニメのスタッフの苦労、苦心も桁違いだろうと思う。健闘と幸運を祈ります。

2011. 11. 26  
マキャフリィ女史が亡くなられた。
「パーンの竜騎士」シリーズ。
「クリスタル・シンガー」
「歌う船」
どれもこれも大好きだった。特にクリスタル・シンガーは、アメリカのSFアート髄一の描き手、マイケル・ウェランの素晴らしすぎる仕事の表紙絵によって世界観をより拡張された逸品だと思う。


今の日本で青春を謳歌する女子達には想像もつかないことかもしれないけれど、かつて女性の地位は大変に低かった。欧米においても。
どれくらい低いかって、どんなに名作SFを書いても、女性名で発表することまかりならぬ、と圧力をかけられるほどに。


女がSF? はっ、バカ言ってんじゃないの。じゃなくて、女ってバカじゃん。バカがSFなんか書けるわけ無いだろう、創造的で知的で過激なSFというジャンルに女ごときが入ってくるなっつーこと。てな風にみんな思ってるわけでね? 女性だって知れたらそもそも売れないわけ。だからね、女って判っちゃう名前はNGね、ってことでよろしく。


とばかりに、数々の女性作家が略名で作品を発表し続けることを強いられたらしいのだ。C・L・ムーア。A・K・ル・グウィン。A・マキャフリィ。アリス・シェルドン女史に至っては、どっからどうみても男性名の「ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア」という名前で破格の傑作を発表し続けた。名前だけでなく内容も過激で硬質でシビアそのものだったばかりに誰もが男性と信じて疑わず、真相が明かされた時の衝撃はとてつもないものだったという。

そこまで女性がバカにされる社会、風当たりの強い時代に、マキャフリィは北米SF界における2大栄誉、ヒューゴー賞とネビュラ賞をパーンシリーズで受賞する。
いずれも女性としては初の快挙だった。

「ええ、私はやったのよ! やり遂げたのよ! とずっと思い続けたわ」
とインタビューに答えておられたのを覚えている。

マキャフリィの作品は、その殆どで主人公は女性だ。
それも格別に強い女性だ。意思の力と生命力が全身からみなぎり溢れるような、光り輝くキャラクター。
いかなる困難にも、不可能に見える事態にも、ひるまず、恐れず、猛烈なバイタリティで突き進む。
負けない。引かない。諦めない。泣いて助けを求めたりしない。問題は解決するべきもの。そのために全力を尽くす。目的のために手段なんか選ばない。

現代日本ならばむしろ当たり前の存在でしかない、ありふれたものでしかないこういうパーソナリティや行動原理や思想を、差別の逆風吹き荒れる時代に確信をもって書き続けたフロンティア精神と肝っ玉。マキャフリィ女史の作品とヒロインは私の憧れの的だった。女性が立ち入ることを許されなかった未踏の荒野に猛然と道を切り拓き続けてくれた偉大な先人が居てくれたからこそ、今、私は顔を上げて生きていられるのだと思う。

私がパーンを読み始めた頃、同じくマキャフリィ好きだった友人と語ったことがある。
すごく映画向けの話だと思うけど、とにかく飛竜がネックだよね。1体2体ならともかくさ、大編隊をどうやって実写にするか。無理だよねー、そうだよねー、と。

カナダではテレビドラマとして映像化もされた(日本未公開)らしいのだが、やはり竜はギミック入りの作り物だったという。それはやっぱり観るには厳しいだろうなぁ、と思っている。

だが今なら、進化したCGがある。天空を埋め尽くす竜騎士群も余裕で描写できるはず。女史の存命中にはかなわなかったが、私が生きているうちにはなんとかならないものかなぁ、と切実に思うのだった。


2011. 11. 15  
伊藤計劃という方の著書「ハーモニー」と「虐殺器官」が同時に手元に来た。ともあれ「虐殺器官」の方が発表も時系列も早かったらしいので、まずそちらから読む。」

凄まじいことに、1日で読みきってしまった。めっきり読書力が落ちているのに、自分でも驚くほどの久しぶりの興奮。
いや、興奮というよりは戦慄。総毛立つ、などというような浅いものではない。骨の髄からひっくり返されるような驚異。

そして今日は「ハーモニー」。
タイトルと著者名、そして高評価。この3つだけは知っていた。なにせSF大賞と星雲賞、ダブルクラウンに輝く作品なぞ滅多には無い。プロが選ぶSF大賞とファン投票で決まる星雲賞、通常は傾向が異なるのが当然であり、それが一致するとなるともうそれだけで破格の証明なのである。

で、これまた1日で読了。
とにかく読みやめられないのである。驚異、驚愕、戦慄。次から次へと引き摺り出される、眼前にあるのに気づかずに済ませ続けてきた現実とコトワリの暴露。揺さぶられる常識、そして意識。なんとなく当たり前だと思っていたことがガラガラと崩壊し、それまで思っても見なかった概念が新しく上書きされていく、目眩に似た感覚。

センス・オブ・ワンダー。

これが、これこそが、SFだ!! と声を大にして何度叫びだしそうになったことか。生粋の、混じりっけ無しの、まったきSF。

現実の意味を問うこと。人間とは何かと問うこと。生きるとは何かと問うこと。心とは、魂とは、意識とは、世界とは、総てが何か、そして何故かと問うこと。

宗教が幅をきかせる以前、それらはもっぱら哲学の使命だったのだろう。
科学という補助線を人間が手に入れて、SFが産まれた。それらは時に哲学も宗教も持ち得なかったアナーキーな、破壊的な、この世のものとも思えぬような衝撃性を帯びた。見たことも考えたことも無いもの、大いなる未知。そんなものがあるとは夢にも思わなかった事柄が、現実性をもって脳裏に刻み込まれる体験。
それを知った後では、世界がまったく変わって見えてしまうような、生き方すら変わってしまうような、とんでもない何か。

そういう思いを味あわせてくれる作品、表現というものは本当に滅多にはお目にかかれないのだ。これほど年をとってしまうとなおさらだ。特に最近はあれこれのフィクションに倦んでしまっていた。どこもかしこも、見たような、読んだような、聞いたような、千度繰り返されたであろうオヤクソクの羅列に満ちている。
「だってそうでないと売れないんです」
ああ仕方ないよね。そういうたぐいの仕方ないことで世は満ちている。いろんなことを仕方ないしょうがないで飲み込んで日々を生きる。年を取り、いろんな可能性がすり潰され、感性も磨耗して、安心、安定、安穏を求めて生きる。たまに眼を見張るような新奇に出会えば欣喜雀躍。

だがそこまで老いてもまだなお、これほどの震撼に私は出会うことが出来たのだ。歓びじゃない。愉悦ではない。官能でも感激でもない。
残酷で、苛烈で、容赦の無い、夢も希望も無い、愛だの恋だの薬にもしたくない、信頼も仁義も人道もお呼びで無い、ギリギリまで削ぎ落とされた現実。過去でも未来でも異世界でもない、今まさにそこにある世界が抱える問題こそが立脚点。直視に耐えない恐怖。たいていの人間が逃げ出し目を背け無かった事にして頭を幻想の毛布に突っ込んでやり過ごそうとする厄介なもろもろの事ども。
真理とは冷酷で恐るべきものなのだ。
それほどの修羅の只中に立ち、まっしぐらに問い続け、ビジョンを見つめ続け、一歩も逃げずに淡々と答えを書き続けた伊藤計劃という人物。なんという胆力。なんという豪力の筆。
そしてもう出会うことのない人物であるという事実。

伊藤計劃さん、奇跡のような作品を書いてくれてありがとうございました。少しでも多くの人が貴方の作品に触れてくれるように今後ほんの僅かずつでも伝えていきたいと思います。



















****************どうでもいいこぼれネタ**************

ハーモニーを読んでてとあるSFアニメを思い出した。
同時にトキワ荘時代の逸話を一つ思い出した。

某若手漫画家の一人は頻繁に映画を観に行った。
そしてたちまち「新作のアイディアを思いついたぞ!」と叫んではゴリゴリ描いた。
だがそのアイディアはすなわち観たばかりの映画の改変だったという。
でもその漫画家にはパクリの意識はなかったそうな。刺激を受けて産まれたオリジナルだと思っていたそうな。

しょうがないよね。あまりに凄いものに出会ってしまったら、自分もそんな風なもの、やってみたくなるよね。
元ネタを越えられると良いのにね。はてさて。
2011. 10. 09  
「夢のまた夢 決戦! 大阪の陣」読了。

276ページもある、凄いボリュームだ。関ヶ原以後の大坂、秀頼の小姓の視点から、家康陣営との開戦に至る過程を丁寧に追っていく話。
簡潔なのに濃密な文体のエレガンスは健在で、時代物にも相応しい力量の持ち主であることを証明している。
ま、そんなことは受賞デビュー直後の短編「代官」発表時点で知ってたけどね。
主要人物のほとんどが、言動も知能も明晰で、読んでいて不安や苛立ちが全く起きず、スラスラ読めた。みんながみんな、こんなに物わかりが良く、常識的で、愚鈍な感情のやり取りなどで時間を浪費せずに居てくれれば、世の中どれほど生きやすくやりやすいことだろう。

で、そこまでIQもEQも高そうな素晴らしい人たちが仕切ったり参戦したりしていた大坂の陣がどうなったか、というのは歴史的知識としておぼろげには知ってるわけで、はてさて主人公であるところの美貌(と決め付ける)の少年殿様の運命や如何に? と思ったのだけど、相当に意外な展開のところで終わるのだった。うーん、こりゃ続きが無いと困っちゃうなぁ。

とか言いつつ、それよりもなお殊更に声を大にして言いたいことはただ一つ。



星界の続き読まさんかいワレー



ホント、実際の所、私が生きてるうちに読めるのかしら。無理かもしれない。人間の生命のさだめなんぞ判らないものだし。ジョブスが逝ってしまって、諸行無常の思いひとしお、なんですわ。
同時に、何事も仕方なし、とも思う歳にもなったけどね。



おまけ:星界脳のアタクシ、開戦準備の大坂城内の兵糧やら焔硝やらの物資調達、組織作りに必要な手続きの詳細などがとことん綿密に書かれるあたり「サーゾイ、サーゾイ(主計科)」という単語が幾度も脳内こだま。こういう総務的な視点で描かれる歴史物ってかなり珍しいのじゃないかな。

2011. 05. 21  
老眼も進んで、読書のはかが行かなくなっていたのだけど、御命日が近い季節だからなのか、ちょっと一気に火がついたように「伊集院大介シリーズ」をまとめ読みしていた数日。

「樹霊の塔」
「女郎蜘蛛」
「逃げ出した死体」
「六月の桜」


着物、という服飾文化全般についての思いの深さがそのままボリュームになったかのような女郎蜘蛛と、おそらくはあらゆる伊集院大介モノの中でもっとも壮絶な内容と言うべき「六月の桜」が圧巻だった。
特に後者、筆致は時代がかった耽美なものであっても、そこに描き出されているのは例えば今のネット用語に置き換えるならば「ニート」「引きこもり」「コミュ障」「厨二病」「DQN親のDV」などの、現代が抱える問題の最先端を鮮やかに抉り曝け出すもの。
伊集院大介の事件簿には、天狼星やゾディアックなど、より凄惨なもの、残虐なもの、グロテスクなものはあるのだが「壮絶」という言葉が一番似つかわしいのはやはりこの「六月の桜」ではなかろうか、と思うのだった。
ニート、ヒッキー、人格障害に厨二病なんぞ、今まさに売れ続けているラノベなどの小説にはあふれんばかりに描かれてはいるだろうが、この「六月の桜」独自の恐るべき要素は

「そんなもの別に今の若者に限ったものでもなんでもないし」

と言わんばかりの身も蓋もない冷酷な事実なのだと思う。
人類にとってそれらは普遍的なもの。昔から当たり前にあるもの。
現代が問題にすべきはそれがかつて無いほど拡大し続けている、ということになるのだろうか。それともこれはまったくの的外れで、見るべき方向は見当違いなのか。大介さんならなんと言うだろう。フィクションのキャラでありながら、時代にそって順当な加齢を続けた大介さん。あの稀有な才と人格をもってしても、現代そのものには追い付きかねる日が来ていたのだろうか、という気もする、ファンにとってほろ苦いオハナシ。

2011. 02. 18  
最後のグイン・サーガ新刊「ヒプノスの回廊」。別冊や、DVDパンフなどに書かれた短編を収録した外伝である。
これに収録されている、「アレナ通り十番地の精霊」という話が、私は大好きなのである。

ちょうど、まどか☆マギカにヒートアップ中でもあり、あらためて「魔との契約ネタ」をさらい出して考察しまくってる折でもあったので、この短編の類稀な価値と、栗本さんのクールさをしみじみと再確認する思いだった。


「お前の願いを叶えてやろう」
この言葉から始まる物語を、人間はどれほど量産し続けてきたことだろう。
そしてたいていは、人間の愚かさを示して終わる。
魔の甘い囁き、誘惑に対抗してハッピーエンドで話を締めくくるためには、人間としてのありとあらゆる叡智が絞られねばならないのが常だ。

アレナ通りは、なんの変哲も無い庶民が集い暮らす、ありふれた下町の一つ。そこで「煙とパイプ亭」という居酒屋を営む一家に訪れた、ささやかな一夜の奇跡の物語。

気の良い亭主とマメな母親、跡継ぎの息子には可愛い嫁が居て、夜ごと客で賑わう店。
だが一見円満に見えるこの家庭は、実は戦乱の世に相応しい苦難と嘆きの嵐に何度もさらされてきた。
長男は遠く離れた城塞で戦死した。次男も徴兵に駆り出され、片足を喪った。街が占領された際、亭主は敵軍の略奪と暴行にあい、失明する。行き倒れの青年を助ければ、衛兵の尋問や悪漢の乱入を引き起こされ、一家惨殺一歩手前の災難に巻き込まれる。やがて亭主は年老い、衰弱し、今まさに生涯を終えようとしている傍ら、跡継ぎの次男の新妻は初子の難産に苦悶している。
そんな夜、疲れ果てた次男の元に、精霊がやってくるのである。
そして言うのだ、「なにか願いを叶えてやる」

さぁ、どこまでもありふれた、どこまでも実直な、どこまでも平々凡々たる庶民の代表とも言えるアレナ通り煙とパイプ亭の跡継ぎ次男坊は、はたして精霊になんと応えるのか。


グイン・サーガは巨大な物語である。そこにはありとあらゆる類の英雄、英傑、美姫美公、想像を絶する悪と魔、世界を揺るがす戦乱と陰謀と救済と破滅が詰め込まれている。
破格と非凡と巨大と深遠。圧倒的なまでの非日常のオンパレードの中、1巻からこの最後の外伝にいたるまで、途切れること無くほそぼそと、しかし脈々と挿入される庶民の生き様。それが「煙とパイプ亭」の人々の人生である。
英雄、王者、世を滅ぼさんとする悪魔。そういうものと全くの等価の存在として、とある平凡な一家の運命と因果が語られるということ。私はこの点にこそ、グイン・サーガという作品の稀有を、傑出の意味を見る。グイン・サーガという物語が描きたかったことはなんなのだろうか、という問いへの答えがそこにある、と考える。
英雄、だけを描きたかったのではない。凶々しい魔、だけを描きたかったのでもない。多くの国家の事情が複雑に絡み合う興亡史、だけを描きたかったのでもない。美男美女がおりなす複雑壮大なロマンス、だけでは当然ない。

すべてを。
世界を。

世界、とはなんなのか。何で出来ているのか。それをまるごと作り出し、見渡し、全てを描き尽くす。それこそがグイン・サーガが書かれた目的なのだろうと私は思っている。

だからこそ、英雄と市井の民の存在が等価でならねばならなかった。そうでなければバランスが取れない。世界、では無くなってしまう。光無ければ闇無いように、民無くして王は無いからである。歴史無くして「今」は無い。政治無くして国家は無い。産まれて生きて死ぬからこその人生。すべては複雑に絡み合い、変わり行き、小さなことからも世界全てが変わり得る。だから、世界をまっとうに描くためには、ささやかなこと、小さなこと、そういうことを疎かにしてはならないのである。

小さな居酒屋のうらぶれた部屋で起きたささやかな奇跡。
実直な若者が採った選択とはいかなるものだっただろうか? ちょっと想像して頂きたい。
私は、アレナ通りで下されたこの小さな決断は、フレドリック・ブラウンが提示してみせた「魔界まるごと撲滅契約」と並び立つ、古今無双の叡智の一つだと思うのだった。

願わくば、まどか☆マギカの魔法少女たちが叡智を極めてくれんことを。正義も勇気も自己犠牲も、ましてや愛の名を借りたナニガシかなど、私はもうたくさん、うんざり、食傷の果てに嘔吐寸前なのである。綺麗事なぞ、あらかたは虚飾であり、口先だけなら、言葉だけなら、人間どんなことでも言えるし願うし考える。だが荒々しい現実の前に、そんなハリボテは容易く破られ、所詮は私利私欲でしか人間は行動しないことを曝け出しがちだ。
今こそ、叡智の意味が問われねばならない。
あるいは、賢明の意味を。

あー、続き、早く観てー。


2010. 12. 16  
毎朝8時半に家を出る夫の人を駅まで送っていくのが私の日課だ。
駅前には書店があって、いつも9時前から開けている。開店準備の荷出しをしながら営業もこなしているのである。
そして、「KAGEROU」が一番目立つ位置に平積みになっていた。
私よりやや若い感じのご婦人が、1冊抜き出してレジに持って行くところだった。
で、気づくと私も1冊手にとってレジに向かってしまったのである。Amazonに注文してあるのに。ダブり確定なのに。
ところが、レジ直前で、ご婦人、おサイフを覗いて、千円札を握りしめて、本は元あった位置に戻してお店を出て行ってしまわれたのである。「ど、どうしたの? もしかしてお金足りない? 500円くらいなら貸しましょか?」と声をかけるヒマは無かった。

とまぁこんな次第で、朝一番に購入してしまい、一気に爆読みしてしまったのであった。
危惧していたほどハラホロヒレハレではなく、かといって昔書いていたコラムのようにガッチガチの硬さがあるわけでもなく、キチンとしていながらも読みやすい文章だった。すらすら読み進められる。しかも楽しい。

だが、問題はお話の展開なのである。特に後半、一気にグダグダ化してしまった。あっちゃー、なのである。
一応、筋は通って終わるのである。破綻はしてない、のである。だから、グダグダ、という表現は適してないのかもしれない。
だがしかし。
これはあまりに……なんと言ったら良いのだろう。ご都合主義、というのとも違う気がする。甘い展開、と言うべきなのか。スイーツ(笑)ともまた違うような。
自分で自分の感想を掴みかねて困惑するはめになった。
そうだ! このぶっ飛び具合は、子供の発想なのだ。それこそ思春期もまだ遠い、頑是無い童子の思いつきのような。
だがしかし……。

言葉を探しあぐねながら夫の人に違和感のようなものをウダウダ語っていると、夫の人が言った。
「メルヘン?」

いやそりゃ違うだろう(この時私の頭に浮かんだイメージは『詩とメルヘン』という雑誌)

いや、待てよ?
そもそも、メルヘンってなんだ? 私は、この言葉の意味をちゃんと理解しているのか? してない気がする。

メルヘン 意味 検索結果

夫の人の言葉が的確なのだ、と悟った。
KAGEROUは、ずばり、メルヘンなのである。

ファンタジーではない。ましてや断じてSFではない。童子の魂を抱えたまま、大人の世界を普通なら行けない深部まで冒険してしまった異色の青年の手による、大人のためのメルヘンなのである。

だけど、メルヘンで収まりきれない、納めるべきではない要素も含まれており、そのあたりは洗練がまったく足りない、ということになるのだと思う。
いわば習作のレベルであり、文章が普通に上品で丁寧であることと一応のまとまりがある完結を見ている点から、最終選考までは残りうる作品だとは感じるが、大賞の名に相応しいか、という点については疑問を持つ。
だが、考えてみたら、ポプラ社というのは長らく児童書を出してきた出版社だ。「我が社が売り出します!」と、メルヘンを推進することは別に奇妙なことではないのじゃなかろうか。

……というのは極大好意的解釈、というやつで、ヒロ君、もっと修行しましょう。
この愛すべき小品は、おそらくは多くの好意と賞賛を得るでしょう。
同時に、それに数倍する量の悪感情による反発、非難、罵倒に晒されることになるでしょう。

(とか思っていたら、それこそ夜も明けないうちにネットのアチコチでえらいことに早くもなってる。ああもう。まったく、もう。オロオロ。どうしよう、オバチャンはオロオロヽ(´Д`;≡;´Д`)丿)


初版に校正ミスがあったらしく、あわただしくシールを貼って修正してあった。長年、山のように本を読んできたがこんなケースはほとんど知らない。どんだけ突貫工事だったのやら。
また、ノンブルが手書きになっているページもあった。
やれやれ、と思っていたのだが、今思い返すと、あのページ。
一応内容に関係しているのかな。それともただの偶然なのかな。関係をもたせて意図的にやった手書きノンブルなのだとしたら、しゃらくさいイタズラだと思うのだが。

*****************

とまぁ、ここまでが客観的論評というやつ。
こっから先はどこまでも個人的な想いを綴らせていただく。興味と御用の無い向きはどうぞとっととお帰りあそばせ。

******************

読めば読むほど思った。さすがは、ヒロ君だと。私が思っていたとおりの、いやもっと斜め上にそれを超えていく、純粋さとクールさを兼ね備えて物事を見ている子なのだと。
普通の人が見ていない、見ようともしない世界の細かいアチコチを、またはどこにも存在しないはずの何かを、「なんだろう? なぜだろう? こんなふうに思うのは自分だけ?」と、じーっと見つめて生きてきたんだね、と感じてしまうような部分が多々あった。
そして、その視点は私のそれと、実に近くて良く似ているのだね、と。
だから私は読んでて楽しかった。愉快だった。痛快とまで言って良い。
「僕は物事の、こういうところが気になるんですよ」
と言わんばかりに、あちこちに挿入されるツッコミ防止のためのガード。
「だから、こう避けますよ! そういうところを、オロソカにはしませんよ!」
カン! カン! カン! 短剣を跳ね返す盾のように。
その盾の構え方があまりに判りやすいので、度重なるうちに愉快のゲージが溜まっていき、ついに私は喉をのけぞらせて大笑した。止まらなかった。共感ゆえに。
この愉快ツボを共有する人なぞほとんど居ないだろう。ほとんどの人にとって、それらはどうでも良いことなのだろうから。どうでも良い、細かいことに目がいってしまうということ。気になって仕方がないということ。だけどそれらを判ってくれる人はほとんど居ない、ということ。
だから私は、そういうことが通じそうな相手が好きなのである。世の他の人には見出しようがない安心を見るような心地になるからである。

KAGEROUを読んで一番嬉しく楽しかったことはまさにこのことだった。

次に嬉しかったのは、まさにこれが、ただただ書きたくて書いた物だ、という気がしたことである。
先日、評論家の竹熊健太郎氏のとある談話の動画を観た。
そこで氏はこう語っていた。
「創作を志す人というのには、2種類あると思うんです。1つは、とにかくただ書きたくて、描きたくて、作る人。もう1つは、「先生」と呼ばれたい。偉い、スゴイ、と思われたい。そういう、評価や賞賛を求める動機がまずあって、そのための手段として創作を目指す人、です」

前者の数は少なく、後者の数は大変多い。
そして天才と呼ばれるタイプは前者に多い。こういうタイプはほっといても書く。誰になにを言われようが言われまいが、書く。作る。表す。息をするように創作する。それが生き甲斐であり、その為に生きる。そうしなければ生きてゆけない。あるいは生きるのが辛い。誰のためでもなんのためでもなく、どんなに忙しかろうが誰にも省みられ無かろうが、創作する。表現する。そういうふうに、自分自身で自分を満たし、癒し、派生として他人をも幸せにしていくのである。
まことの創作者とはそういうものであると私はかねがね思っていた。だから竹熊氏のその言葉に深く頷いていたのである。
なお竹熊氏は後者のタイプにも寛容であられるようだが、私はまるでそうではない。卑しい存在だと思っている。こういうタイプの手による創作物は総じて自己顕示や誇示が剥き出しになっていて、実に易々と書き手創り手の裏の目的をさらけ出しがちだ。私はそういうものに不快を覚える。臭気を嗅いだように苛立つ。

ありがたいことに、KAGEROUからそういう類の臭気を嗅がずに済んだのだ。善哉、善哉。彼は本物である。いまだ卵の殻がひっついたままのヒナの段階ではあるけど、純粋であることが感じられて、私を幸せにしてくれた。
ついでに言うなら、形骸じみたマッチョイズムの臭気も綺麗サッパリ存在しなかった。ますますもって有り難い。

そして純粋かつ幼くあっても、甘いばかりでは無いところがまた嬉しかった。怜悧で乾いたリアリティでもって、曖昧さをバッサリ切って暴くような、身も蓋も無いと言いたくなるような冷徹さもあるのだった。これまたたまらなく小気味良かった。

結局要するに、作品として評価はしかねるけれども、私はKAGEROUが大好きである。イケメン・水嶋ヒロも大好きだが、作家・齋藤智裕はもっと好きになれそうだ。
願わくば、ああ願わくば。
怒濤のごとく押し寄せる悪意にどうか折れることなく、書いて、書いて、書きまくって欲しい。どんどん成長していって欲しいし、その可能性はたっぷりあると信じている。これからの君の人生はますます大変なものになっていくかもしれないけれど、どんな苦難もいつかきっとすべてが肥やしになる。折れない、めげない、へこたれない。書くことそのものが必ずや、君の支えになり救いになっていくはずだ。
齋藤智裕の次の作品、今後の活躍に心から期待する。


2010. 02. 07  
本田透 著 「アーサー帝戦記II 最後の魔術師(マーリン)」が、あまりにあまりに私のハートキャッチ&ど真ん中&ど貫通だったので思いのたけを綴っておくのだった。

今まで読んで来た本田きゅん♪ の小説の中で、何より一番好きだ!
正直、ほぼ怪物的な存在である少年王・アーサーの重いさだめを描いた1巻はなかなかにダークで容赦も無く、なにより実際性が希薄な感じがしてやや受け入れがたかったのだが。

この2巻は、アーサー王を支え養育してきた老魔術師(でも見かけは若い)マーリンの思想と動機と果てない想いの起源を、遥か遠いアレキサンドリアの過去からたどることから始まる。
アレキサンドリアには人類世界の叡智を結集した図書館と、教育機関があった。
そのすべてを統率していた、比類無き天才美女・ヒュパティア。
彼女の元で滅びかけたドルイド文化の後継者としての教育を受ける少年(後のマーリン)との出会い。
だが待ち受けるのは惨劇。ヒュパティアについてはWiki参照。 なお、MMORPGとかファンタジー好きならヒュパティア考案とされる「アストロラーベ」というアイテム名にちこっと反応するかもだw

そして、アーサー王伝説内ではマーリンの恋人とも描かれる女性ドルイド・ニュミエと、アーサー王伝説序盤屈指の悲劇キャラ・ベイリン、この二人の交流が実に良いのだ。

アーサー帝戦記においては、ニュミエはサクソン兵への復讐のために甲冑に身を固めた冷血の戦乙女として。
ベイリンは、サクソン兵の虐殺によって人生を破壊された後、破滅と殺戮の快楽に生きてきた野盗の頭として登場する。
諍い合い、殺し合うまでの険悪だった関係から、ほんの僅かなきっかけで何かが通い合う。
だがその直後には、容赦無い決戦が待っていた。
必勝を期して軍師マーリンが配置した布陣は如何なる結果をもたらすのか……!
生きて地獄を見、絶望しつつもなお諦めず生きてきた三者三様の凛然たる交錯はとにかく美しい。
本田氏独自の思想や信念、夢、願望、理想、そういったものが詰め込まれて炸裂しているかのようで、最初からほぼ最後まで激萌え、そして垂涎の1冊となった。実に続刊が楽しみである。

ただ、最後モルガンが登場した辺りはやや血の気は引いてしまったのだけど。
本田きゅん♪ が、どれほど女性の存在そのものを苦手としているか、も見えてしまう次第ではあったことよ。ニュミエは自分を女を捨てた男と言い張るキャラだったからこそ活写できたのかなぁ、とも思うのだった。


2010. 01. 12  
コミケで買ってきた栗本さんの同人小説をついに読み終える。
読み耽っている間は、どうしてもなにか食べずにいられないので、体重が一向に減らないという悩みはあったが、内容についてはとにかく凄い! の一言。さすが商業を考慮しない限定解除。展開もやおい描写も空の果てまでのぶっとびぶりであり、精神性は果てしなく深い。
読むだけで人生が変わってしまう小説など、そうそうあるものではないだろう。素晴らしすぎる。
まだ、続きはあるのだろうか。最新刊の著述は2005年。きっと、まだ、あるだろう。
まだ読めるのだとしたら、なんと幸せなことだろう。


栗本薫「東京サーガ」の主人公の1人・天才ジャズミュージシャン、矢代俊一。
「彼にはミューズの守りがついている」
ミューズとは、芸術を司るギリシャ神話の女神達である。9人いるとされており、それぞれに分野の担当がある。
(山岸涼子さんは、このうちの舞踏を司る女神の名前、テレプシコーラをそのままタイトルに、素晴らしいバレエマンガの連載を今でも続けておられる)
そしてその中にカリオペーという女神もいる。

「カリオペー(カリオペイア) Καλλιόπη (英: Calliope) - 英雄叙事詩。持ち物は書板と鉄筆。」Wikiより引用。

小説の神がいるとしたらカリオペー、ということになるだろう。

栗本さんはかねてから何度も
「私には小説の神がついている」
と語っておられたと記憶している。

常に波瀾万丈すぎる矢代俊一の人生の中でも、最新刊を含む展開はとにかく激動激流嵐のごとくめまぐるしく主人公を翻弄しまくっていくのだが、そんな生きるか死ぬかの状況の連続のさなかでもやはりまた
「ミューズの女神が俊一を守ってくれる」
という一文が出てくるのだった。
それを目にしたとたんに、泣いた。

カリオペーは。
栗本さんを守らなかった。
グイン・サーガを守らなかった。あまりに巨大な未完の大作を残して栗本さんは道半ばで逝ってしまわれた。
これが現実。
人の夢、幻想、思い、願い、そんなことども全てを踏みにじって成立する世界の秩序。
神など、人の心にしか居ない。あるいは、非情な秩序こそが神。

その非情、無常、身も蓋も無い現実の冷酷と厳しさを思うと、栗本さんが逝ってしまわれてからこっち、ずっと泣けずにいた私も涙が止まらなかった。


神の守りがもはや無い、と知ってしまわれて以後、栗本さんの決意は、どこまでも変わらず自分自身を全うすること、という事になっていったのではなかろうか、と私は勝手に思っている。
書く。
変わらず書く。
先を急ぐことはせず、結びだけを一足飛びに書くこともせず、ただ、ただ、端然と全力でひたすら、つまりは今までどおりに書き続けること。
その選択にこそ、神が宿っていたのかも知れない。

プロフィール

星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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