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2015. 06. 25  
 とても忙しく、Twitterしかできず、アニメも週に3本くらいしか観られません。
 今季はFate stay nightを特に熱心に観てました。
 初めての話なのに、特別に懐かしい。
 そういう不思議な思い入れのある物語。

 もう十年以上前。
 FFXIというMMORPGでディープに遊んでました。
 LSと呼ばれる仲間システムに多数所属していました。そのうちの多くが、それぞれサイトをもっていたりして。
 そのサイト内の個人スペースに、ある日書き込まれた文章に惹かれたのです。

 「 体は剣で出来ている
  血潮は鉄で、心は硝子
  幾たびの戦場を越えて不敗
  ただの一度も敗走はなく
  ただの一度も理解されない
  彼の者は常に独り剣の丘で勝利に酔う
  故に、その生涯に意味はなく
  その体は、きっと剣で出来ていた」


 ひどく印象的な文章。ドラマティックで耽美。
 これはいったい何だろう? この人の創作? はてさて?

 ほどなく、その投稿に他のメンバーの返信がつきました。

 「僕の知ってる***そのままなんですけど偶然?」
 正確な文章は覚えてませんが、こういう感じの書き込みだったと思います。

 どうやらコピペであって、オリジナルではないらしい?

 由来を知りたくてググってみると、なにやら殺伐とした絵が出ました。
 剣。疲弊した様子の人影。寂寥の荒野。
 そして英文字のみのタイトルぽいもの。

 アニメじゃないらしい、マンガでもない、小説でもないらしい?
 なんだか良くわからないまま、荒野のイメージと耽美な詩文だけが記憶に残りました。


 MMORPGの記憶も遠く薄れ、そのLSの名前も、サイトの在処も、まったく思い出せません。
 それなのに、あの印象的な詩文だけはずっと記憶に残ってました。

 「体は剣でできている、血潮は鉄で心は硝子……」

 十年以上の時を経て、あの詩文(詠唱)に再会するとは。
 なんの脈絡もなくあの文を個人スペースに貼り付けたあの人は、当時何を思っていたのだろう? 知るすべもありません。


 「Fate stay night UBW」。
 「FateZero」が大好きでしたし、今回のシリーズも堪能しました。容赦無い哲学と美学。それらは十年以上前から確立されて、ずっと熟成され続けてきた世界観だったのでしょう。


 滅多に長文を書く暇も無い日々ですが、Fateがさらに個人的に特別な作品となったので、思い出とともに記しておきます。

 Fateもだけど、シドニアもジョジョも良かった!
 来季、ここまで粒ぞろいのお気に入りに出会えるかしらん?
 Twitterにこもる壁をぶち壊して駄文を書き連ねたくなるくらいの何かに。

 期待はいつだって持っているべき。




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2013. 08. 08  
戦意高揚コンテンツ、というものがあります。戦争状態になった時、国民の気分を盛り上げる目的で作られるものです。
歌や演劇、映画など。
アニメも例外ではありませんでした。
あのウォルト・ディズニースタジオでも、戦意高揚アニメを何本か作っています。

こういうのとか。

つい昨日、ワーナー・ブラザース制作の戦時アニメをネットで初めて見ました。
バッグス・バニーが日本人をやっつける、というコメディ短編です。
さすがギャグに定評のあるワーナー。バッグス・バニーは相変わらず絶好調、というところです。

この作品を観たアメリカの人の感想も併記されていました。
その中に

「当時日本側でも制作されたであろう宣伝映画に興味がある。
おそらくワーナーに対抗して、反米国的なステレオタイプが沢山盛り込まれていたのでは」

という声がありました。

反射的に私が思い出したのは

「桃太郎 海の神兵」

という長編アニメでした。

やはり戦意高揚を目的として作られた作品です。

この作品に先駆けて

「桃太郎の海鷲」

というものもあります。


「この二作をぜひ観て欲しいなぁ。どんな感想が聞けるだろう?」
と思うのでした。

戦意高揚と銘打たれてはいますが、この二作は、実に牧歌的で愛らしい作品なのです。戦争ものとは思えない、まったりとした平和で穏やかな日常がずっと綴られます。

「これを作った人は、実は戦争や破壊なんかこれっぽっちも好きでもなんでもなくて、ただひたすら平和や優しさ、思いやり、恩義や礼節、穏やかな希望を描きたかったのじゃないかなぁ。美しいものや可愛いものが大好きで、戦争映画にかこつけて、そういうものを見せたかったのじゃないかな」

そうとしか思えない、なんともゆったりと美しいアニメなのです。

占領先の南方で、現地の動物に日本語を教えるシーンがあります。
ここで流れる「アイウエオの歌」が、私は大好きなのです。

ちょうど、ここで聴けます。
http://www.youtube.com/watch?v=nzzctRDcfXE

高音の冴える、澄み切った旋律で、やたらと耳に残ります。
実際に日本軍の教育を受けたフィリピンの御老人たちは今でもこの歌を歌える、と聞いたことがあります。

作曲なさったのは古関裕而さん。

そう、夏の高校野球全国大会、そのテーマソング「栄冠は君に輝く」の作曲をなさった方です。
阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」や読売巨人応援歌「闘魂こめて」もですね。
「モスラの歌」も、そうなんだそうで。

いつまでも心に残り、ずっと歌い継がれる歌。みんなが知ってる歌。
そんな歌を何曲も残された人生は、作曲者として最高の栄誉を得たということなのではないかなぁ、と思います。



**********************************


今年も夏の甲子園大会が始まりました。
例年に無い、酷暑の大会となりそうです。
ここ何年かで、日本の気候はすっかり変わってしまいました。かつてなら考えられないほど、夏は暑くなってしまいました。
熱中症の被害などが出ること無く、つつがなく大会が終わるよう祈ります。


正直、そろそろ時期や会場を移すことを考えるべき時代なのではないか、と思うのですが。

とは言え、なにせ戦前からずっと続いているイベントです。戦後日本の歴史なんぞより古いのです。
単なるスポーツ、高校生のチャレンジの場、などという枠をとっくにはるかに超えた

「神事」

というレベルに至っている気もしますので、大掛かりな変革はとても難しいのかもしれません。



2013. 07. 20  
宮崎駿監督の新作「風立ちぬ」を観てきました。

映画館であれほど泣いたのは久しぶりです。初かもしれません。
そして、今後も無いかもしれません。
まさにそのことそのものが、エンドクレジット中に嗚咽を抑えきれなかった原因だったかと思います。

猛烈に感動し、猛然と語りたくなる作品です。
ですが、ネタバレになってしまうようなことは一切したくない。
なるべく先入観の少ない状態で、あの世界を味わって欲しい。
初日に観てしまったがゆえの葛藤があります。

ごく冷徹に言うのであれば、実在の人物をモデルにしていることと、有名な文学作品を参考にしていることと。
この2点に関しての流れは、ネタバレを封じてもほとんど意味が無いことかもしれませんが。

物語、ストーリー、起承転結、というもの。

「何がナニしてどうしてこうなった」

あるいは

「いつ、誰が、なにを、どこで、どうして、いかにして」(5W1H)

ということを示すのが物語ということであるなら。
この作品の一番肝心な要は、そこには無いのです。

観て、判っていただくのが一番です。
そして、アニメーションというジャンルならではの形でそれは描かれているのです。

さらに付け加えるなら、まさに今、現代という時代に呼応した作品でもあります。
「崖の上のポニョ」にもそういう部分がありました。
あの時より、さらに切実な思いが「風立ちぬ」には溢れているように思います。

名作は時代を越えますが。
いつ観たって感動できるのは確かな作品ですが。
今、この夏、観ていただきたい作品です。



一緒に映画を見終えた息子は、そのまま弾丸のような勢いで所沢へ向かって行きました。
前回のエントリで扱った、唯一の完全保存の零戦を見るために。
この展示は8月いっぱいで終わってしまいます。お別れの日まで、さぞ賑わうことだろうと思います。
復元機体の展示なら、他の場所でもいくつもあるようです。
 ↓
参照

観てから見るか。見てから観るか。どちらであっても、感動を幾層にもしてくれることでしょう。
実在をじかに見ることの重要さと、非実在を夢見ることの重要さと。
どちらもが、人間にとって欠くべからざる必然であることを、零戦とこの映画が教えてくれたような気がします。

2013. 06. 17  
子供が親の思い通りに育つわけないでしょ!? 

今日は、そういうお話。


熱量と文字数の最新更新トークで

「3歳になる娘がいます。プリキュアが大好きな彼女が、プリキュアを卒業したら、その後なにを見せてやればいいでしょうか?」

という相談を受け、いろいろ考察するという場面がありました。

プリキュアは人間関係の深い話も普通にやるので、ずっと見せていて良いのでは? というところから、親のオタク趣味に寄せていくべく萌え系の作品も見せたいとか、いろんな思惑に沿った提案がいくつもあって、実に面白かったわけです。

私がまず脳内に挙げたのが、おジャ魔女どれみシリーズ。プリキュアよりもリアルな方向性なので、プリキュアアフターには最適かと。

次に浮かんだのが
「とにかくアルプスの少女ハイジと赤毛のアン、この二作こそ、もうてっぱん中のてっぱん!」
ということ。

そして、なぜこの二作がてっぱんかを考えますと。
すなわちそれは高畑勲氏という至高の演出力とこだわりを持った監督の仕事が素晴らしすぎるから、ということになります。
なら、氏の他の作品も同様の価値を持つはず。
パンダコパンダはもちろん、セロ弾きのゴーシュもマスト、ということになります。

「ん? だからといって「太陽の王子ホルスの大冒険」はじゃぁアリなのか? んん? なぜだろう、純然たる子供向け漫画映画のはずなのに、ありゃぁもちっと青春くさくなってからだろう、とか思ってしまうのは?」

さらに考察が進んで

「そもそも、オタクとして育って欲しいならば、先に見せておくべき作品群があるはずじゃん? アニメーションという虚構を本能的に愛する人になるべく、より原初的快楽に訴えかける作品を。アニメーションの本質が骨身に沁みる作品群を! そう、ディズニーのシリー・シンフォニー・シリーズやフライシャーを! 言語の壁が存在しない、観ているだけで万人が理解できる、まさに映像の根本を示す古典の数々を! 音楽と動きが一体化したアートとしてのアニメを! これこそまさに情操教育としてまず必要な道でして……」


などと考えているうちに、ハタ! と気づきます。
古い作品ばかり。
これじゃあ「年寄りは引っ込んでろよ」と言われても仕方なし、であります。



私はテレビアニメ鑑賞を再開したのがここ2、3年でしかないので、20年ほどに渡っての知識がすっぽり欠落しているのです。
古いものしか紹介できないのは問題です。

なので夫の人にもこの話題を振ってみました。
いろいろとトークが沸騰し、それはそれは楽しかったのですが。
意外にもやはりタイトルがそう多く挙がるわけでもなかったのです。

「これが『男の子』なら、もっといくらでも見せたいタイトルは浮かぶんだけど。うーん、女の子だし……」

と夫の人が言った瞬間、私の脳裏に幼児期のトラウマが蘇りました。

アポロ計画ブームの時代、宇宙やロケットやSFなどの記事ばかりだった「小学○年生」という雑誌を買ってきた私。
それを母が取り上げてパラパラとめくってこう言ったことを。

「ロケットだのロボットだの、こんなもの、女の子のためのページなんてほとんど無いやないの。本屋に返してらっしゃい。お金返してもらってきなさい」

私はまさに、その、ロケットだの宇宙服だのの本が読みたかったのに。
女の子のための本じゃない、といって取り上げられてしまった。
女に生まれたばかりに、自由を奪われる。意思をないがしろにされる。
そんな世間の理不尽を初めて押し付けられた記憶。



「……いや、よく考えたらそれっておかしいよ。女の子だからって、作品を選り好みとかおかしいよ。どんな作品だって、観せてあげるべきだよ!」

「だよなぁ。どんなものを好きになるかはその子次第なんだし。なんでも観せて、何が好きかは自分で決めさせるべきだよな」

「あ、後さぁ、出来の良いものばかりじゃなくて、上品なものばかりじゃなくて、そうじゃないモノも同時に観せた方がいいのじゃないかな」

「グダグダな、ユルユルなダメ作品も観せようってことか?」

「そうじゃなくて、出来は凄いんだけど、下品なネタもやる作品を。だってね、良識的なものばかり観せて育てたら、成長したころに反動が来て、「よろしくないもの」の魅力にハマってしまって抜けられなくなってしまうかもだから」

「あー、それはおおいにあるね」

「なので、ハイジやアンなどと同時に、クレヨンしんちゃん劇場版などを激推しします。特に初期のやつ。雲黒斎とかヘンダーランドとか」

「おおいに同意する」

などと話が進んだあたりで、フッと嫌な予感のようなものがよぎりました。


「……いろいろ出たけど。結局さ、何をどんだけどんな意図で観せようが与えようが、やればやるほど、いつか子供はそこから反発していくものじゃないの? 反抗期ってのは来るものだし、そうしたら、親のやることなすこと嫌で嫌で仕方無くなるわけだし。

『あのクソみたいなガキ親のせいでアニメなんか死ぬほどキライになっちまったよ、ムシズが走るよ! バッカジャネーノいい歳こいてあんなクダラナイものゾッとするよ! そんなものより世の中にはもっと大事でイイものがいくらでもあるってゆーのに! 金だよ、ヤクだよ、男だよ、生でリアルな刺激だよ!』

てなこと言いながら、ロックだダンスだアングラだーって、素人バンドや演劇集団の追っかけのために家出しちゃって、くだらない男の語る夢とやらに騙されて貢いだり、あっというまに破綻した結婚で生まれた赤ん坊抱いて出戻って来たりするようなギャルに育つ可能性とかが出てくるじゃん、逆に?」



というわけで、結論。

子は親の思い通りにはなりません。
むしろまったく逆であります。
そして、それが自然なのです。

親としての思惑、意図、理想。
それを押し付けたくなるのは大人のサガのようなものです。
ですが、それがいつか裏切られることもある、という覚悟を、常に大人は持っているべきだと思います。



********************

この会話をした後日、爆笑問題のラジオに虚淵玄氏がゲストに来た回を聴きました。

虚淵氏の御父君は「宇宙戦艦ヤマト」がお嫌いだったそうで

「これ(ヤマト)を最後まで観て、泣かなかったらオモチャ買ってやる」

と仰り、でも虚淵少年はやっぱり泣いてしまい、オモチャは貰えず、敗北感を抱いたとか。

あるいは、アニメのサントラを聴き込んでいたら

「そんなものは音楽じゃない! これを聴け!」

とご自身の好きな音盤(頭脳警察などだったそうな)を渡し、虚淵少年はイヤイヤ聴いて

「わっかんねーなー……」

と思っておられたと。

アンチオタク教育と言うべき薫陶を受け、いまや虚淵氏はバリバリ売れっ子のアニメライターに大成なさいました。

そういうものなんだなぁ、としみじみ再確認した次第です。


2013. 06. 11  
TV放映中の「ヤマト2199」。夫の人と一緒に毎週観ています。
夫婦揃って50歳ですから、初代ヤマトブームの直撃を食らった世代です。当然ながら旧作ファンならではのこだわりも多く、時にはちゃぶ台返ししたくなる瞬間もありますが、それでも毎週楽しんではいます。


旧作でも活躍していた、ゲールというキャラがいます。
昔からなんとも難儀な性格のイヤなオッサンだったのですが、2199においては更にイヤさに磨きがかかり、下司というか下衆というか、とにかく「ゲス」というしかない、判りやすいおひとです。
私は基本的にこういう、私利私欲にまみれた下品で騒々しい御仁は大嫌い。

ですが、キャラクターというものの奥深さとでも申しましょうか、特徴があまりに尖り過ぎるとかえって突き抜けてしまい、逆流のようなことが起きることがあります。

人気を取ろうとしてカッコよさを強調し過ぎると、かえってバカみたいになったり。
悲劇性を打ち出し過ぎて、シリアス転じてお笑い系に流れたり。

2199のゲール君の場合、ゲスさが極まり過ぎて、もはや愛嬌の領域に突入し始めたように思えて来ました。
このまま話が進めば、ほぼ間違いなく「ゲス可愛い」という珍奇な魅力でもって結構な人気を獲得することになるでしょう。
なにせ、旧作の流れを踏襲するのであるならば、この先ますます彼の見せ場(?)や活躍(??)が派手になっていくはずだからです。

無闇矢鱈と美しい青年や少女、渋くてカッコいいオヤジなど、素敵キャラばかりで満ちている2199ヤマトですが、やはりこういう汚れ役と言うべき存在が居てこそ、世界が味わい深いものになれると思うのでした。


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デスラー総統を讃えるシーンを観ていて、

「なんだかガミラスがローマ帝国っぽい?」

という気がしたのですが、ちょっとネットを調べてみると、2199ガミラスとデスラーの設定として

『ガミラス統一の立役者であった叔父の亡き後、内乱を鎮めて権力を掌握、軍事独裁制を布いて帝国を拡大、その政策の基本は寛容……』

などとあるのを見ると、ああもうこりゃマジもろにカエサル後のアウグストゥスなんだなぁ、と。

アウグストゥスというよりオクタヴィアンと呼んだほうが、私と同じくらいの年代のオールドオタクな方々におかれましては

「ああ、あの、『クレオパトラ』で野沢那智が声やってたキモいやつ」

と、即座にご理解いただけるので、話が早いんだか早くないんだか。


さらにネットを漁ると、実は旧ヤマトのプロデューサーだった西崎義展氏が

「デスラーはローマ時代の皇帝のイメージ」

と語っておられたそうなので、2199のガミラスの設定はそこから発展していったのかもしれません。


旧作には無かったオリジナルエピソードも増えてきました。なかなか目が離せない展開になってきて、ますます今後が楽しみです。

2013. 06. 06  
「進撃の巨人」のコミックス売り上げがドエライことになっているそうです。

4月からアニメの放映が始まり、原作本が飛ぶように売れ、

「2カ月で750万部の重版は、講談社史上最大の数字ではないか」

ということだそうな。

「こりゃぁ遠からず進撃ビルが建つな!」

と一瞬は思ったのですが、それよりも出版事業をネット新時代に対応させるためのインフラ開発に利潤はお使いになるのかもしれません。

本の売れないこの時代に、ただでさえ原作本は1200万部というとんでもない数字を出していたわけで、そこにアニメ放映という最大規模の広告効果が重なり、もうドエライというしかない事態であります。
そして恐ろしいことに、この勢いはしばらく続き、数字はもっと伸びるでしょう。



始めて書店で原作の1巻を手にとった時。
正確には、試し読み用の薄い冊子をめくった時。
あの衝撃は未だに鮮明で忘れられません。
とにかく、物凄いシロモノでした。なにが凄いって、とんでもなく絵がヘタだったこと。

「こんな稚拙な状態でデビューさせるなんてほぼあり得ないはず、何が起こっているのか?」

数ページほども読み進めて、『何が起こったのか』はすぐさま理解できたのですが。

そこに溢れていたのは、独立独歩の感性と、破格の意思力。
何が何でも、己の内に沸き上がってくる、人と世界と物語を描き出して形にするのだ、というがむしゃらの挑戦。
混じりっ気無しの、それは金無垢の才能の輝きでした。

これは間違いなく化ける。超絶な作品になる。その明確な可能性の前には、画力が追いつかず修行不足であることなど、何の問題にもならない。
ド素人の私ですら雷に打たれたようにそう感じ取るほどなのですから、プロの編集がどれほどのインパクトを受けたのかは計り知れません。

かくしてうら若き新人のデビュー作はたちまち世に登場し、破格の扱いで書店に置かれ、あっというまにセンセーションとなりました。

巻数を重ねるごとに、稚拙だった画力がメキメキと上がっていき、物語のテンションも上がり続け、謎は深まり、物語の勢いもとどまるところを知らない激しさ。

そして満を持しての映像化です。
このアニメ化の見事さが、世にも稀に見るクラスのハイクォリティだったわけです。

普通、人気マンガが映像化された場合、たいていは悲惨なことになります。実写であれアニメであれ、どうにも平板にぺったりと原作をなぞっただけになるか、激しく劣化するか、あるいは原型をとどめない改変がなされます。

原作を忠実に再現し、なおかつ映像としての魅力に満ちている、などという理想的なケースは滅多には成立しない、稀少例なのです。

ですが進撃の巨人は素晴らしいスタッフに恵まれたようです。
また、おそらくは予算も破格なのだろうと思います。演出、作画、美術、どれをとってもテレビアニメの枠には収まらない手間暇と力量が注がれています。



結果、今何が起きているのか。
それは、破格の浸透です。
進撃の巨人は、原作の持つパワーとアニメの迫力とが合わさって、マンガ・アニメというポップカルチャーの世界の壁をやすやすとぶち抜いて、普段そういうものに目を向けない一般の人々のところまで飛んでいき、ハートを貫いて行っているのです。

放映開始後たった二ヶ月。
ネットには次々と「進撃の巨人ごっこ」で遊ぶいろんなネタがアップされ、テレビやラジオの一線で活躍するタレントの方々が「誰にでも通じるネタ」として「立体機動」などと口走る。

アニメ、マンガ、ゲームがどれほど素晴らしい作品を生み出そうとも、それが一般の老若男女にまで浸透するまでには、かなりの時間がかかります。
長らくオタクをやってますが、これほど素早く世間に認知されていったケースを私は他に知りません。
「進撃の巨人」は、売り上げという数字的な意味でも、作品という文化的な意味でも、空前絶後のスケールのものを残すことになるでしょう。
個人的には「ポスト・エヴァンゲリオンと言うべきものがやっと出てきたなぁ」と思うのでした。

ポップカルチャーの裾野が広がり、数限りないほどのファンタジーやSF、フィクション性の強い作品が次々と世に生まれ続けています。
その膨大な作品群の中で、進撃の巨人がこれほどまでに抜きん出ているのは何故か。

理由は数多くありますが、今一つだけ挙げるとするならば

「『世界』を描こうとしているから」

だと思っています。

そしてそのために、

「好ましいものを一、描くために、その数十倍、数百倍を勉強し吸収し消化し、己の手足の如く使いこなせるための武器となるまで身につけなければならない、ということを原作者が骨身で知っているから」

だと思っています。

自分にとって都合の良いもの。
都合の良い設定、都合の良いお話に都合のよい人物ばかり描こうとするクリエイターには決して辿りつけない境地を、原作者の諫山創さんはおそらくは生まれながらにして持っておられる。まだ大変にお若いのに驚くべきことです。

ですが、正真正銘の才能というものは、実はしばしばそういうものなのだろうとも思うのでした。

2013. 04. 10  
アニメの新番組「惡の華」の第一話を鑑賞。

事前にあれこれ物議をかもしているという話を聞いていたわけですが、思ったほどの衝撃は受けませんでした。
信念や意思に基づいた、まっとうな意欲作だと思います。

とはいえ、非難の声の意味ももちろん判ります。

この作品は、硬直化しガラパゴス化しようとしている、日本のアニメ文化に対する果敢な挑戦であり、ひいてはオタク文化そのものに対する挑発でもあるからです。
アレルギー症状にも似た悲鳴が上がるのはむしろ当然かもしれません。


惡の華の作画に使われている技法は、ロトスコープと呼ばれる、実写映像を加工したものです。
これはアニメーションの世界では、およそ100年ほども前から使われている古典的な手法です。
フライシャーやディズニーの作品でも多用されているので、見慣れた方も多いはず。

かつてのロトスコープと惡の華との違いは、アナログ手法がデジタルに置き換わったという点でしょう。
そのためか、古典ロトスコープ表現に比べて、ややおもむきに欠けた風情が漂っているとは感じます。
人間が手描きで転写したタッチと、デジタル的に転写されたタッチに相違が出るのは当たり前のことです。
肝心なのは、そのタッチの違いを如何なる表現に結びつけていくのか、という創作側の意思でしょう。


惡の華。
舞台は学校。どうやら地方都市。なんの変哲も無さそうな、地味な文学少年の日々。
目立たず、争わず、親にも学校にも逆らわず、誇りと憧れを胸に秘め、古本屋通いで気に入りの詩集を読み耽る。
でも心の奥底ではたぎるマグマのような得体の知れぬ衝動が蠢いている。
ほんの些細なきっかけで、少年の心の中に一つの思いが形になる。
凶々しい花が咲くように。


学園モノです。青春そのものです。
そして、そういう舞台や状況を描くアニメは数え切れないほど日本にあります。
ですがそのほとんどが、日本特有の画風で描かれた、美少女美少年の群れが登場人物になります。
いわゆる「萌え絵」です。

アニメもマンガも、理想化されたイメージを表現する形で進化発展してきました。
現実の要素を削ぎ落とし、描きたいものを絞り込む。
受け手は、簡素化された絵に、己の望ましいイメージを投影して重ねることで、イメージを強化します。
この構造によって、作り手と受け手、双方の幸せに繋がる文化。それがオタク文化の本質の一つです。

「理想を思い描くことによって幸福感を得ること」

この目的、大原則こそが日本のオタク文化をここまで発達させてきたのです。

美貌のキャラしか登場しない。汚いものは極力出さない。大人が邪魔なら家庭から排除する。次から次へと都合の良いことが起きる。楽しく、愉快で、賑やかなことばかり。
そして、ここが一番重要。
「どんな問題も最後には丸く収まる」

美しき好都合と、予定調和。
アニメはそれらの権化です。
もちろんアニメに限ったことでもなく、ドラマであっても、ハリウッド映画であっても似たようなものだとは思いますが。


翻って「惡の華」。
実写から起こした画面。
背景だけなら、なんの変わり映えも無い、リアル指向の丁寧で美しい絵です。
非難が集中しているのは、キャラの描き方です。なんとも生々しい。従来のアニメの絵なら削り捨てて顧みない、現実のきたならしさがありありと現れているのです。
少女の身体は、美しいとは限らない。
生の肉が発する存在感。下駄箱に入れる靴の独特の臭いまで漂ってくるような、執拗なリアルの追求。
だぶついた脂肪があること、臭気を放つ粘膜があること、陰鬱な表情や仕草があること。

理想を夢見て幸せでいたい心が、目をそむけてなきものにしたい「現実」そのものが、これでもか、これでもか、と叩きつけられた絵になっているのです。
アニメファンに、「現実見ろよ!」とアニメの形で見せること。
これが挑戦でなくてなんでしょう。



このリアル描写、個人的には心安らぐものを感じます。
美しいもの、好都合なものしか存在しないマンガ・アニメ表現の世界。それに対する微かな反発を、私は思春期の頃から抱いていたからです。

「そこに私のような存在の居場所は無い」

奇妙なことに、そういう想いが強いほど、現実をさらに否定し、理想を追って快美を得たいと願う心も強くなるもので、反発しながら耽溺するという、心理のねじれ構造のようなものがさらなるオタク文化追求を深める、という人生になったのでしょう。

アニメに堂々と「ブス」が描かれる時、思春期の頃の反発がかすかに宥められるような心持ちが沸くのです。

「ああ、私の存在は消されていない。なき者にされてない。居ても良いんだ」

と。



なお、「アザゼルさんZ」初回のブス表現まで行くと、安らぎを通り越してもはや「爽快」になりますが。
この作品においては、第一期の学校描写や、「セーヤ編」でのホステスの群れなどに、容赦無きドブス描写が嵐のように吹き荒れます。
美少女も醜女も等価でしょ、という視点がそこにはあるように思いますし、その視点あってこその深い人間観察であり、それがガルパンという作品での数十人もの女子高生のキャラ描写のそれぞれを際立たせるという偉業に結実したのだろう、という見解を付記しておきます。


人間は、見たいものしか見ようとしない。
オタクは、その意味ではさらに先鋭的です。
鋭くなるほど狭くなる。
結果、日本のテレビアニメは呆れるほど視野の狭いものが増えました。
同じような絵柄、同じような内容のものが増えました。
不景気による商業主義への適応によってそうなっている事情もありますが、この方向性が極まることは文化の発展と存続のためには、大変危険です。

「そういうものでしょ」

という、固定化した狭量な視野しか育たなくなるからです。
豊穣であるべき可能性が否定されるばかりだからです。


「惡の華」の、既存のイメージに挑んだ姿勢を、心から称賛し今後の展開を見守りたく思います。

2013. 03. 31  
ガールズ&パンツァー、ついに完結。
そろそろバラツキがあった放映スケジュールも落ち着いた頃かと思います。

いやもう本当に素晴らしい最終回でした。まさに伝説級です。良質なアニメは毎年たくさん生まれますが、ガルパンは明らかに別次元の傑作になりました。

*題材が個性的であること。
*設定と物語が深く練られていること。
*演出がオーソドックスで堅実であること。
*アニメーションの本質と伝統を大事にした映像であること。
*大人数のキャラクターのそれぞれがリアリティを備えていること。
*BGMなど、音響へのこだわりが深いこと。

美点が、枚挙にいとまもないほどです。
これらの項目、ひとつを語るだけでエントリが一日分消費されるくらいに、濃いのです。

特にアニメーションとしての価値については、ウォルト・ディズニーが産みだした手法と文化の遺伝子を受け継ぐ、正統なる後継者としての称号を水島努監督に奉りたく思います。

手描きの動画では大変に困難な、戦車という複雑なメカニックの動き。
それをCGを駆使することによってダイナミックかつ生き生きと描き出し、臨場感と緊迫感溢れる映像にしてみせた手腕こそがまさに伝説の名に相応しいと言えるでしょう。


キャラクターを魅力的に描く技は、日本では大変に進化しています。特に可愛い女の子の描写は洗練の極みに達しています。つまり、可愛い女子なんてものは、アニメにおいては実にありふれたものです。

ですが、戦車という無骨な兵器を、水島監督はキャラ化してみせたのです。可愛い少女たちと等価の存在として。これはとんでもなく稀有なことだと思います。戦車はロボットですら無い、人型ではない、感情移入の困難なものなのに。

そして、水島監督のさらに恐るべき実力は、より特別な困難に挑んで成功させた点にも現れています。

それは「町」のキャラ化です。

ヒロインたちが住む学園艦、それが寄港している町は、茨城県大洗町。
なんと、戦車のみならず、この町そのものがキャラ化に至っているのです。

特定の地域を舞台にしたアニメはたくさんあります。美しい風景、独特の風景、それらが作品に溶け込んで成功した作品は、実際の地域に多くの観光客を呼び寄せ、おおいに成功する例となります。

しかし私の知る限り、そういうご当地アニメのほとんどが、どんなに良質な作品であっても、現実の眺望を、美しい背景以外の存在として描くことは無かったように思います。

ですがガルパンと大洗の関係は一味ちがうのです。

実際の大洗の町並みを戦闘フィールドとして、派手な戦車戦を繰り広げる回があります。
この回の絵コンテが凄かった!
ポリゴンとしてグリグリ動く背景。道路、街角、建物と一体化して激しくアクションする戦車。勢い余ってぶっ壊される実在の建物。

これらを、まさにその場で味わうかのような臨場感でもって描くこと。
人間と戦車の視点で描くこと。
単なる背景ではなく、視線の先にある空気の一部として感じられる存在として描くことで、大洗という町がキャラおよび戦車と同一の意味を持ったのです。町がキャラクターとしての属性をまとった瞬間でした。

結果、どういうことになったか。

大洗の町にはガルパンのファンがあまた訪れ、お祭りは大盛況。
大洗の町を挙げての大歓迎。多くの商店、駅舎、水族館、数えきれないほどの施設が、ガルパンにまつわる展示や掲示を掲げて作品の応援をしてくれたそうです。
先週のイベントには、町長と自衛隊のはからいで、本物の戦車の展示がかなったとのこと。

そして最終回の放映が出揃った今、大洗駅には

「祝全国大会優勝 県立大洗女子学園」

の横断幕が張られているそうな。

かつてこれほど地元に愛されたアニメ作品があったでしょうか。


ガルパンのフィナーレは、大会を終えたガールズとパンツァー達が、大洗の町に戻ってくるシーンです。
港に続く道には、地元の人たちが作った花道。「優勝おめでとう」のノボリ。
拍手で喜び迎える大人たちの数は、思いの外に少なく、一見は地味な凱旋です。
でも、それが大洗の町そのものなわけです。人口2万に満たない、小さな町なのです。
このささやかなリアリティを現す構図、紛れもなく大洗そのものであろう空気感を写した構図。
そこには、スタッフの大洗への感謝が溢れていました。
光る海、輝く大洗タワー、そびえ立つ巨大な学園艦。そこへ帰っていくヒロイン達と戦車の後ろ姿の美しいこと。
超重戦車マウスとの激戦シーン、知恵と勇気とチームワークが結実したあの名場面と並ぶ、一生忘れられないシーンとなりました。

この、作品と実在の町との幸福な絆こそが、ガールズ&パンツァーの伝説の最大のものだと思います。
願わくばこの蜜月が末永く続きますように。











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「ガルパンの水島監督の新作が始まるそうだよ」
「おう、知ってるぞ。確か『アザゼルさん』とかいう」
「なんか可愛らしい動物みたいなのが出るアニメらしい」
「そりゃ観てみなきゃなぁ」
「ガルパンみたいに楽しい話なんだろうなぁ」

……という感じの大洗の人たちが実際にアザゼルさんを観たら一体……(汗)(大汗)



水島監督は本物の「天才」なんです! どうか許してあげて!


私的には戦車と少女よりも、極悪ラブリー悪魔たちの方がより愛おしいものであります。

2012. 12. 19  
戦車の知識なんぞ全く無かった私が毎日Googleを開いては

「ボカージュってなんだ」
「シュトリヒってなんだ」
「エルヴィンって誰だ」

と調べてしまっている。ガールズ&パンツァーの威力おそるべし。
特に水島監督自らがコンテを切った回の戦車戦の見応えはまさに破格。ゾクゾクする。緊迫と緩和の絶妙なバランス。迫真の火力と重量の説得力。なぜこの人はこんな凄いコンテが切れるのだろう、何がこんなに求心力となるのだろう、どうもうまく言語化できなくてもどかしい。


「ねぇねぇ、クリスマスプレゼントにプラモの戦車買ってくれよぉ夫の人~」
「え、もう用意しちゃってるし(別のものを)」

冗談ですよ、自分で買いますですよ、本気で欲しいならば。
でもどれもこれも買うわけにはいかない。戦車プラモはけっこう高いのだった。それにプラモなんてほとんど組んだこともないし。ガンプラみたいに簡単じゃなかろうし。
とにかく、最初の1台を何にするか絞り込まねばね。

ガルパンの公式サイトには各チームの戦車の紹介ページもある。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な♪」

どの戦車も可愛い、どれにもそれなりに魅力がある、ということをガルパンは教えてくれた。だからこそ、どうも決め手が無い。これが一番! ってのがなかなか決まらない。

あれもこれもとサイトを見ていて、結局、私が一番美しいしカッコいい! と感じた戦車は。


……これでした。


なんかホントすいませんすいません。なんで謝ってるのか自分でもよく判らないけどすいません。




調べてみたら時代が全然違うわけで、一足飛びに「これが一番!」とか選び取っちゃうあたり、私の功利主義みたいなものが剥き出しになってますな。

圧倒的に不利な状況や戦力をものともせず善戦を重ねてみせるところが魅力の、ガルパンという作品の理念とはまったくの正反対の、狡猾なる即物性を自分で自分につきつけたかのような結果かと思うと、直感的に「すみませんすみません」という気分になってしまったのもむべなるかな。

ガルパンキットにはなってないけど、プラウダ側の戦車も割りと好みかな。スターリン重戦車? 上部が曲面構造になっていて敵の砲弾がツルッと滑っていったという。萌える☆


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マケドニア戦法で連携歩兵の強さを知り。
ハンニバル戦法で騎馬隊の威力を知り。
ローマ軍団で総合的軍略の重要さを知り。
マスケット隊による三兵戦術を知り。
重火器が戦争の様相を塗り替えたことを知り。
泥沼のような塹壕戦を打破するために戦車が産まれたことを知った。

戦いを有利にするために必要な3つの要素。
機動力。
防御力。
重火力。
これらを総て兼ね備えた、ある意味究極の存在。それが戦車だ(った)と。

世界史に沿ったこの理解の流れが無かったら、いかに1話の水島コンテが神がかっていたとしても、やっぱり私はポカーンとしただけかも知れない。よーわからん、と切り捨てて終わったかも知れない。出会うべき時に出会えた幸運に感謝を。

それにしても、個人的には大好きになったけどマニアックな人気しか出ないのじゃないかなぁ、と思っていたのだが、関連商品が次々速攻で売り切れるなど、ちょっとしたブームになってる模様。
やっぱ、女の子たちも可愛いもんね(´ー`)

2012. 10. 09  
この秋期待の新作TVアニメ、「ガールズ&パンツァー」第一話視聴。

大好きな水島努監督のオリジナル作品であるらしい。

女子高生と戦車? なんじゃそりゃ。と思いながら楽しみにしていたのだが、とにかく初っ端の数分でドハマリ。

CGを生かした複雑で個性的な背景動画。
セルアニメ時代なら考えられないような動きが可能になるCG背景。縦横無尽に変化する構図。ひた走る色とりどりのパンツァー(戦車)たち。

このパンツァーたちが得も言われぬ可愛さなのだ。
こういうものに可愛さを感じてしまう私は、ちょっと、いやさ、かなりおかしいのかもしれない。
可愛いと言って理解されないなら、存在感が凄い、とでも言おうか。

戦車一つ一つに、個性があり、描き手にの方には、それについての理解と愛情がある。
それがひしひしと伝わってくる映像だったのだ。

この開幕の映像だけで私的にはもう掴みはバッチリ。

その後、本編として、ごくありがちな平凡な女子の日常が始まる。
ここでも眼を見張るのは、極端にセリフが少ないことだった。
主人公の少女がどういう子であるのか、を動きと演出で見せてゆく。

小説やマンガが原作のアニメの場合、無闇矢鱈とセリフやナレーションに溢れるケースが多い。私は割りとそれにはウンザリしている方なので、こういう演出主義の静謐さはとても好きだ。


話が進むうちに、平凡な女子高生の生活だと思っていた世界が、どうやら相当に非常識でシュールな世界観の上に成り立つ異様な場であることが判ってくる。

が、そこまでをとにかく丁寧な日常感で演出してきた流れがあるので、そのシュールさも、もう頷くしかない。
「はぁ、左様でございますか……ならば仕方ないですね」みたいに観ている側が自分から巻き込まれにいく形だ。

とにかく、この世界では、健全な社会人としての女性のタシナミとして、「戦車道」というものを身につけるべきなのだ、ということだけ納得すればいい。

そして、主人公の少女は、誰かが自分を守るために尽力してくれたからには、己の都合や好みや心身を削ってまでもそれに応えようとする、義理と恩情に満ちた人物なのだ、と納得できればいい。

実に良く出来た、万全の初回だと思う。今後が楽しみだ。水島監督、どうか頑張って。

プロフィール

星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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