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2013. 03. 25  
ディズニーの新作CGアニメ「シュガー・ラッシュ」。

いろんな時代のゲームキャラが一堂に会している設定は、「ロジャー・ラビット」を彷彿とさせ、ゲームセンターから人が居なくなった途端に、やれやれと業務を切り上げて自由を満喫するキャラの行動は、ピクサーの「トイ・ストーリー」のようでもあります。

「コンピューターゲームの歴史も30年以上を経て、こういう作品が作られるほどの確固たる文化としての地位を獲得したのだなぁ」
と思うとさすがに感無量でした。
ピコピコとペラい音。ギザギザが目立つ、単純なドット絵。
そういう古臭い仕様に、限りない郷愁と愛着をスタッフが抱いているのがはっきり判る作品です。


もちろん、今風バリバリのポリゴンFPSゲーム風のキャラも登場し、昔のゲームキャラと絡んで齟齬が生じるあたり、昔からゲームに親しんでいる大人ほどニヤニヤできる構造だったりします。

物語は実に王道の、出会いと成長と絆のストーリー。
ややベタ過ぎるようでもありますが、そこに込められた作り手の思いや、主張がとても明確で伝わりやすく、

「多分こうなって、ああなって、結局こうなって綺麗に終わるんだろうなぁ」

などと判っているつもりで観ていても、キャラの魅力と表現の巧さにすっかり惹き込まれて、計三回はボロ泣き。隣で観ていた息子が心配するくらい。


設定や構造は、ロジャー・ラビットやトイ・ストーリーに似ているとしても、かつてのこれらの作品には伺えなかったモノがこの作品にはあります。

「こういうことはするべきことじゃないよね? すべきことはなんだろう? どんなふうに生きるべきだろう?」

そういうことを強く呼びかける、刻みこむ、訴えかけようとする、祈りか願いにも似たような、切実な主張が描かれているのです。

現代のアメリカの社会が問題として抱えているある種のモラル崩壊に対する意識が、色濃く反映されているシナリオなのだろうと思いました。
そしてそれは現代日本が抱えるそれにも密接に関連するものでもあるはずです。

文明が進化し、技術が拡大し、その恵みをいち早く享受した先進国。
アメリカと日本。
進歩と繁栄の裏で確実に進んでいったモラル崩壊や人心の変貌。
そのことにこれほど強烈な警鐘を鳴らし、かつ復旧の志しをも示してみせるストーリーが、文明と技術の申し子であるゲーム文化を主題にした作品世界で語られるというのは、壮大な皮肉にすら想えます。


絵作りのセンスこそピクサーに一歩譲る感はありますが、お話づくりの巧さは流石ディズニー、老舗の風格と貫禄は凄いなぁ、と唸らされました。
ゲームになんの知識も興味も無くても楽しめる、手堅い娯楽作ではありますが、ゲームが好きであるほど、ゲームと共に生きた年月が長いほど、深く激しく楽しめる一本でありましょう。

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2012. 11. 03  
久しぶりに夫の人と映画館へ。
観るのは公開初日の「のぼうの城」

上映時間がかなり長い。
が、長さを感じなかった。本当に、疲れること無く隅々まで楽しかった。

登場人物の魅力がまず第一の映画。
たった五百の戦力で、二万の軍勢に耐えた城。それを率いた男は如何なる者だったのか?
智将か?
天才か?
勇猛果敢の英雄か?

どれでもないのだ。見事なほどに、そのどれも無いのだ。呆れるほどのスットコドッコイなのだ。小さく、か細く、ひょうげた男。農作業が大好きで、見物に来ては手伝いを申し出る。が、あまりに不器用なので散々なことになるだけ。百姓にとっても迷惑千万なオサムライ。
が、同じ田畑で泥にまみれて、いつも一緒に笑っている彼はとてもとても慕われていた。
この上下の別の無い人望こそが最大の能力であった、そんな男。

この稀有な城主を、野村萬斎が演じる。彼ならば当然のことであるけれど、やはりというか、まさに鬼気迫る怪演。阿呆のような、抜けまくった不思議な存在でありながら、時折見せるカミソリみたいな鋭い眼差しにゾクゾクした。
この男、決して見かけどおりの柔弱ではない、底知れない恐ろしさを秘めた器であると、言葉も無く、動きも無く、ただたたずまいだけで示せる演技。善いものを見た。最高のものを見た。心の底から満足出来る、幸せな気分になった。映画館に来て本当に良かった。

魅力的だったのは主人公だけではなく、敵の総大将、私のご贔屓武将の一人、石田三成もすごく良かった。
不明なことに、最後のテロップを観るまで、上地雄輔が演じているのだと、私はまったく気づかなかった。隅から隅まで三成にしか見えてなかった。智謀神のごとしと言われながら、愚直すぎ不器用すぎで、妙に阿呆さが残った存在を、万全の形で演じていたと思う。

彼のそばにずっとはべる朋友。大谷ヨシヒコ、もとい大谷吉継の山田孝之が放つ独特のオーラがこれまた良い。

城側の実質的なサムライのリーダー、丹波役の佐藤浩市のカッコよさと来たらもう。

他にも数え上げたらキリが無いほど、綺羅星のごとく登場人物一人一人に魅力がある。ただまぁ、市村正親の秀吉は、流石にイケメン過ぎる気はした。むしろ野村萬斎の方が秀吉にピッタリの気もするが、それが実現する日がくるやらどうやら。


キャラが魅力的であること以上に感動的だったのは、絵作りに迫真性が満ちていたことだ。緻密で、丁寧で、心遣いと覇気に満ちた画面の連続だった。
特に合戦シーンの勢い、スピード、迫力はかの黒澤映画を思わせるテイストで、夫婦ともども随喜の涙。実写の時代劇映像で、これほど心地よいものを観ることができたのは久し振りだと思う。

そしてなによりも。
物語として、映画として。
原作者、およびスタッフが作品に込めた思い。伝えたかったこと。
それがあまりに明確で心に響くものだったこと。
まさにこの時代、この現代に伝えるべきだということなのだな、と受け取れたその思い。
それがどういうテーマだったのかということは、是非劇場まで足を運んでご自身の眼と心で感じ取って頂きたい。

キャラよし、スジよし、描きよし。
三拍子揃った見事な娯楽超大作。「のぼうの城」、オススメです。

2012. 08. 21  
息子と一緒に「おおかみこどもの雨と雪」を観てきた。
とても心地よく泣ける作品。
ただ、息子の好みに合わないものではある。それを承知であえて連れて行った。
自閉の強い息子は幼い頃からのお馴染みのものばかり観たがる。あまり知らない世界に目を向けようとしない。
たまにはまったく毛色の違う作品に親しんで欲しかったのだ。

おおかみこども、は不思議な感触のアニメーションだ。ジャンルでいうと文芸、ということになるのだろうか。
可愛らしい絵柄からは想像つかないほどの過酷なシーンもある。
そもそも、楽しいエピソードよりも辛いエピソードの方が多い。子供向けの娯楽作品にしか用の無い息子にとっては、辛い内容でもあったはずだ。
が、そこはさすがの細田監督。鬼の演出力だ。気に入らない映画に対すると、体をよじって目を背けてしまう息子が、画面を食い入るように観ているのだ。

好きじゃないのに、楽しくないのに、目が離せない。
そういう葛藤をともなった視聴体験を息子が初めて味わっている。
映画の中ではヒロインが一心不乱に子育てをしている。
二重の意味で、私にとって感慨深い鑑賞になった。



内容については、疑問に思う箇所もある。
映像としての力は凄いのに、内容が都合よく出来過ぎていて、違和感が発生しているのだ。

高い演出力、きめ細かい動き、よく考えられた上で詳細に描かれた背景。
生々しいアニメなのだ。
なのに、エピソードが、あまりに非現実だったりする。
「狼人間との間に出来た子供たち」というファンタジーな設定のことではない。私がとにかく気になったのは、時間経過の描き方だった。次に、お金の少なさと、実際に取り扱われる物資の量の乖離っぷり。

「いやいや、そんな素早く作業が済むわけないでしょう」

「いやいや、そんな金の減り方無いでしょう、無限の財布かなにかあるのかよ」

こういうあたりがとにかく気になる。あまりに現実味が無い。映像にはリアリティがあるのに、内容にそれが無い。

なまじアニメとして心地よく仕上がっているだけに、その乖離はとても目立った。
結論として思ったことは、これは形を変えた萌えアニメである、ということだった。理想化されすぎている。都合よく整理されすぎている。描きたいことを絞り込むために、剪定されすぎている。

だが、その剪定されて切り落とされて捨てられてしまった部分にこそ、人生の真理がふんだんに含まれているような気がしてしまったのだ。なにか、足りない気がしてしまうのだ。そうじゃないだろう、とチクチクしてしまうような。

だが、それでも観てて心地良かった。
理想化、ええじゃない?
夢、ええじゃない?

このごろの、人心の荒れ果てっぷりは際限もない。母は子供に情愛を持って接するもの、なんて概念は完全に崩壊している。
そして、その容赦の無い現実は、作品内にもピリッとした形で混ぜられている。

母たるもの、こうあってほしい。子供は、こう育てて欲しい。
正解なんか無いのが子育てで、理想を追うのが正しいとも限らない。
そうだとしても、「王道」をはっきり形に示すことで、なんらかの指針にして欲しい、そんな理念で作られた作品でもあるのだろう。

理想をイメージ化して無意識にまで叩きこむために、リアリティを排除して剪定をすることは、必要なことであったのかもしれない。



華奢な体に似合わぬ根性と体力の持ち主、そして大いなる寛容のヒロインを、宮崎あおいさんが素晴らしい演技で表現していた。一見、フワフワと掴みどころのないようでいて、完璧な母性。非の打ち所のないおかあさん。頑張る、ということを、頑張るという意識なしにこなせるたくましさ。

これから子供を産み育てる若い女性たちにこそ観て欲しい。あまり共感はしてもらえないかもしれないけれど。
すでに子供を産み育てた女性にはもっと気軽にオススメ。あるある、ナイナイで盛り上がれる。

まだまだ心が幼い私の息子にとっては、とても哀しいお話だと感じられたらしい。
でも私には、この上なく幸せな話に見えた。幸せといって不適ならば、円満というべきか。
哀しみは人生の一部であり、排除するのではなく、受け入れてなお円満足り得るよう心するべき、という辺りなのかもしれない。


2011. 12. 21  
「ロード・オブ・ザ・リング」(指輪物語)の前日譚にあたる「ホビットの冒険」の映画の予告キタぞー!

美しい。いやが上にも美しい。
ロード・オブ・ザ・リング三部作から年月が過ぎた。映像技術も進化している。なんという透明感。光の演出が凄い。クッキリとクリアーで、かつ詳細に作りこまれたもろもろ。
大変に丁寧に作られている気がする。それなりの映像クオリティを期待して良いだろう。


だがしかし。
困ったことに、これほど美しく作りこまれているというのに、なぜか私には違和感が湧くのだった。
綺麗過ぎる。隅から隅まで綺麗過ぎる。
それはどうにも、私の内にある「指輪物語」の世界とは違う、と感じてしまってしょうがないのだ。
映像があることはありがたい。こうして、原作のイメージをとても大切にして作られていることがはっきりしているムービーを観ると、それだけで胸に迫るものがある。涙が出そうになるほど、こみ上げる何かがある。

だが、私はここで自分に問うてしまうのだ。
「その感動は、何に対する感動なのかね?」と。

そして答えはすぐに出る。
「映像をきっかけにして、かつて自分の心に紡いだ原作のイメージを思い出して感動しているのだ」

目の前にあるのは他人の作った映像。私が感動しているのは、私の脳内にだけある私独りだけのイメージ。
それはどちらも原作小説を基にしているのだが、それでもそれらを一緒くたにしてはならない。別物だ。
キッチリ分けて判断するべきなのだ、と。


私の中の「指輪」の世界は、この予告編のようにどこまでも綺麗なものでは無いのだ。
もっと田舎臭く、もっと薄汚く、肥料や屎尿や埃の匂いが干し草や花の匂いと入り混じり、道端は雑然としていてまだらに雑草に覆われ、轍は深く荒く粉っぽい。家屋の内も外も、綺麗なところとそうでないところがある。
茂みはジメジメと鬱陶しく、ドワーフの住処はさらに暗く異臭に満ちるだろう。魔の領域はさらにいやらしい穢れの地だろう。
そんなリアルな生活の汚れと、容赦ない大自然の驚異への恐れがあってこそ、エルフ達の森の清澄な美と光が映えるのである。この世のものとも思えぬほどの感動と安らぎと憧れの地になるのである。

どこもかしこも丁寧な輝きと美で統一されている「ホビットの冒険」のスチルは、その丁寧さ、作り込みゆえに、かえって実存性を損ねている気がしてしまった。かえって平板で、作り物臭い気がしてしまった。贅沢で不当なぼやきだとは判っているけれども。

この不当っぷり、改めて自分がどれほど激しく深く独善的に、原作のイメージに耽溺し固執しているかを思い知った。どうやっても私は、指輪の世界の映像化やその他のコンテンツに公正な評価なぞくだせないだろう。この作品に関する限り、初めてそれを読んだ小娘のころの気持ちから一歩も成長していない、という気がする。しかもそんな幼稚さや執着を、自分自身で「よしよしイーコイーコ、それはそのままで善いのだよ」と庇って甘やかして助長までしているきらいがある。もう業病レベルだ。下手すると死ぬまで治らない。

なので、観るだろうけど感想は外に出さずにおくかもしれない。あるいは鬼のように語るかもしれない。どっちにしても私にこの方面の話は振らないほうが皆々様のためかもしれない。



いろいろ不満はあったけれども、大昔の指輪のアニメーション映画、そのメインテーマ曲だけは未だに大好きだったりする。

http://www.youtube.com/watch?v=wwcd0vYq3N0

指輪物語は、実写よりも純然たるアニメーション、あるいはフルCGの方が合うと思う。ファンタジーを作る際の「実写の不利性」はもっと問われて良いのではないのかな。

2011. 08. 01  
息子と一緒にカーズ2を鑑賞。

初っ端からものすごいハイテンション映像。普通の映画の終盤クライマックスのノリをいきなり冒頭に突っ込んで掴みはバッチリ。
そして終始ハイテンションが続くのであった。めまぐるしく、勢いたっぷり、息もつかせぬ大騒動の連続。物語としてはややとっちらかった印象もあるのだが、映像に魅力があるので私は大変楽しんだ。ただ、幼児脳の息子にはやや理解が追いつかなかったようである。
冒険と友情と世界漫遊とワールドワイドな陰謀と、文明批判もちょっぴり。判りやすくまとまっていた前作に比べるとやはり盛りすぎか? だが、ハイクオリティなアニメーション表現への感嘆が細かいことなどすべて吹っ飛ばすのだった。特に、イタリアの海岸・リヴィエラの風景の見せ方はひたすらに麗しくかつ臨場感たっぷりで、こんな所で過ごせれば浮世の憂さなど根こそぎ晴れるだろうなぁ、と涙が出るほど感動したのだった。
他にもフランスのパリ、イギリスのロンドンなど、世界各地の見せ場がいっぱい。

だが……実は日本の出番もあるんだよね。
そしてどうも、日本の描き方だけが他の都市とコンセプトが違うように思うのだった。どう違うのかは実際に観ていただいて判断していただくのが一番だとは思うのだが……どうもやっぱり、外国の人にとって日本という国はネタが多すぎるのかなぁ、と首をひねらないでもない。面白かったのだけど、好意も感じるのだけど、それでもなお
「どんなに似せようとしてみてもどうにも可笑しくずれてゆく」
という、海外作品における日本描写のパターンが繰り返されている気がする。
それとも私が知らない・気づかないだけで、イタリア・フランス・イギリスの人たちから見れば、自国の描写については日本人同様のズレを感じるものなのだろうか。

ピクサーの作品を映画館で観るのは久しぶりだった。トイ・ストーリーの昔から、この会社の制作姿勢はまったく変わっていないのだな、と思った。野心的で、向上心に溢れ、なによりもCGアニメーションそのものに対する真摯な志(こころざし)をいつも感じる。今まさに絶好調、脂が乗りまくった円熟かもしれない。この黄金期がどうぞ永く続きますように。



2011. 06. 12  
ニチアサ終わって行ってきましたよ、「ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」

もう初っ端から「祭りじゃ祭りじゃ! 東映特撮最大級の祭りじゃあっ!」ってノリ。なにせね、35年ですよ35年。35年間も休みなしにずーっと続いているTVシリーズなんてどれくらいあります? サザエさん? うん、さすがにあれには遠く及ばないけどさ。視聴率的にも。

結論から言うと、戦隊シリーズに今夢中のお子様達と、今でも夢中な大きなお子様達以外の皆様にとってはどこまでもどうでも良い映画ではありましょう。
逆に言えば、夢中な人達にとっては、まさに神の一本。息子を含めて、まぁ会場のノリが良いこと。イイネ! ボタンがあったら100回くらい押しどころのある、それくらい細かいところまでこだわった、マニアックな一本。

でもまぁ、内容的には、戦隊シリーズ恒例のVSモノ(通常は冬に公開、キャラ物前提なので構成はややユルーいのも伝統)を前倒しで作って、それに35周年記念要素を加えて尺を伸ばしまくった感があり、延々と続く格闘シーンにはさすがに欠伸も出ようというもの。
それでもなお、
「35ある戦隊すべてに見せ場を作り、ゴセイジャーとゴーカイジャーのVS要素も過不足無く入れ、なによりも、戦隊というヒーローが35年かけて培ってきたものを今こそ示すべき時!」
という無茶としか言えない意気込みが炸裂する、熱い、熱い、どこまでも熱い大祭りであり、そりゃぁもう私も息子もいつまでたってもこういう熱さとこだわりがどこまでも好きでたまらないガキでしかないので、大感動と大満足を得て気持よく劇場を後にできたのだった。カタストロフに直面した避難民の絶望の悲鳴が希望の声援に変わっていくシーンにはさすがにボロボロ泣いたなぁ。

どんなに非現実的だろうと、ご都合主義的だろうと、馬鹿げた妄想でしかなかろうと、闇雲だろうがヤケクソだろうが「勇気と強さと正義の夢」という幻想を抜きにしてこの先の日本人がやっていけるとは思えない。特撮ヒーローというのは、現実にあらまほしい「義」の象徴、真髄、上澄みのエッセンスのようなものだ。仰ぎ見るアイコンのようなものだ。アイコンを信じることで得られる力というのは、一見ささやかに見えようとも、馬鹿にできない深さや強さを実は持っていたりするのだ。信仰心の希薄な日本人にとって、それは社会の安定のために欠いてはならない要素の一つであるはずだ、と私は思っている。


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いやもう何に笑ったかって、「スーパー戦隊○○○○(ネタバレ防止伏字)!」出現にはガチで腹抱えて笑った。
そして今なお宮内洋さんの登場には歳を忘れてキュンキュンした(*´д`*)
小川輝晃君はせっかく声入れに来てくれたんだから顔出しも欲しかったなぁ、ま、テレビのカクレンジャー編に期待かな。他にも見どころはいっぱいあるけど、やっぱりこれは、ちょっとでもお好きな人は劇場に足を運んで観てもらうのが一番だと思う。

ふと思い出したのは、私が小学生のころ、ある先生が
「アメリカには、スーパーマンとか、戦前から居る、それこそ何十年もの歴史や伝統をもった特別なマンガのヒーローがいるそうです。日本にそんなものがおりますか。まぁ本当に日本のそういうものはくだらんよ」
と語ったこと。
お年を考えるともうお亡くなりだろうとは思うけど、もし今でもお元気で目の前にその先生がおられたなら「オラオラオラオラオラ!」と印籠かざすように示してやれるだけのものは、もう日本は持ってるってことよな(´ー`)



2011. 01. 29  
息子と一緒に戦隊VS映画「天装戦隊ゴセイジャーVS侍戦隊シンケンジャー エピックon銀幕」を鑑賞。

微妙なモノが多いVSモノにしては出来は鋭利な方だったと思う。でもやはり私としては、セリフ回しなどにもう一捻りくらいは欲しかった。パターン的な言い回しが多く、工夫が足りない感じで物足りない。構成というか、流れは良い感じでまとまっていたんだけどね。ブレドランの無双っぷりにはフイタw

対決物としての、立ち回りの見せ方の上手さが今回は特に良かった。殿役の松坂桃李君、すっかり売れっ子の仲間入りしちゃって多忙らしく、頬もげっそりこけて顔色も良くなかったのだが、具合良いのか悪いのか、たまたま敵に操られて黒に染まり、邪悪な笑みでゴセイたちをボッコボコにする、という展開だったのでぴったりハマっていた。だが実は桃李君の出番はごく少なくて、スーツ姿の立ち回りが中心だったのだけどねw

シンケンゴールドとゴセイナイトが組んで立ち回る場面では、おや?……ゴールドのお腹が……ゲソっとへっこんでお腹のあたりの服が余ってる! そしてゴセイナイトのアクションの重厚でキレが良くてカッコイイことカッコイイこと。はい、岡元次郎さんが入っていたのは今回はゴセイナイトの方ですね!? 高岩さんのアクションオーラも凄いけど、次郎さんのそれもやっぱり別格だわ、と再確認。


そして、今年の新戦隊は35周年総括でもあるので、顔見せが昨年度のゴセイより遥かに派手で長尺だった。

「ゴーカイジャー超カッコイイジャン!!!ヽ(゚∀゚)ノ」

けっきょくこれに尽きるかも。
TVCMで、顔出しのゴーカイレッドの明朗元気なイケメンぶりを一目観ただけで「よっしゃぁ!」と思ってしまった私としては、お祭り戦隊という事情も含めて、おおいに期待しちゃう。
ディケイドのように過去作品の世界に行くのではなく、過去の作品世界を呼び出すのでもなく、
「パクって化ける」
というのは意表をつかれた。
「海賊版ってこと」
それを堂々と言うか! ネガなイメージである、海賊版という言葉の価値がひっくり返るのか? もう、ワクワクである。
その一方で、カイゾクって? と首をひねっている永遠幼児の息子に、海のドロボーだよ、船を襲って荷物は奪って、金持ちは拉致監禁して身代金をふんだくる悪い人たちのことだよ、21世紀の今だって暗躍していて、世界中の人達が迷惑しているんだよ、と基本を説明するハメに。
実際、正義の戦隊に導入するには「天使」と同じくらいヤバい概念だとは思うのだけどね。さぁどう扱うのか。料理の妙が楽しみである。

内容も、実績も振るわなかったらしいゴセイジャーだが、演ずる役者たちはとても頑張っていたと改めて思った。
特にアラタ役の千葉君は高く評価したい。レッドとしてはかなり異色と言える、控えめで大人しくてパシリも黙々とこなすという微妙なキャラに、全力でまっすぐに取り組んでいて、とても好感の持てる演技だった。アラタはあまりかっこ良いレッドじゃない。少年とも少女ともつかない、中性的というよりは無性的な、強さを打ち出せないキャラだった。演じていてあまり爽快感の感じられない役だったかもしれない。だからこそ、力を強調できないキャラだからこそ、「全力」でやるのはかえって困難だったろうと思うのだ。千葉君はその困難さから逃げてる感じがまったくしなかった。結果として、内に秘めた意思や決意が光る、純粋さが現れる良いキャラになった。ヒーローというものに力や強さばかり求める人にはあの秘匿の輝きの価値は見えないかもしれない。だが、脳筋なんてやっぱりオモムキの無いものだと思うのだよ。

2011. 01. 05  
発熱したりしたので書くのが遅れたが、正月のDVD鑑賞第二弾「ヒックとドラゴン」が本当に素晴らしかった件。
知人という知人全てが口を極めて褒めちぎっていただけのことはある。最新のCG技術を極限まで活かしつつ、どこか懐かしさを呼び起こす、堅実でオーソドックスな絵作り。
派手に見せかけるために無闇矢鱈と凝った構図とカット切り替えの乱発でもって、実際には何がどう成っているのかよく判らなくなるという、本末転倒を起こしているCG動画というのは昨今頻繁に見かけるし、私はそういう見せ方にずっと強い不満を抱えていた。そんな私が膝を打って大喜びできる、映像の基本をしっかり守った上でダイナミズムで感動させるという、地味ながら難易度の高い理想を見事に実現してくれていた傑作だった。

ここで私が言うところの「映像の基本」とは、セリフやナレーションなどの説明に一切頼ることなく、映像のみで「何がどうなっているのか」を表現しきって見せる、ということである。これは意外に守られることの少ない基本でもあるのだ。言葉で説明してしまうほうが何かと楽で安易なので、ついそちらに流れがちなのが大抵の映像というものなんである。結果的に「基本なのに高度」な表現になってしまいがちだ。そして、希少になりがちなのだ。
ヒックとドラゴンは生真面目なまでに、この基本に忠実だった。感涙モノである。

やや不満があるとしたら、展開がまるでゲームのように、実際性の薄い、お約束やフラグ立ての進行だったこと。ちょっと変わり種でコミュニティから疎外されている少年の成長物語、というまさに王道のテーマでありながら、まるでRPGのレベル上げのように安易に事が進行していく不自然には若干の苦々しさを覚えた。
次に、実に心配りの細かい綿密で綺麗でリアルなCG表現をしていながら、妙に粗雑な描写が散見されたこと。シナリオの記述とそぐわない風景や建物や小物の取り扱い。厳しい自然の村だと言いながら無限の貯蔵を誇るかのような食事風景とか、頻繁にブッ壊される設定の筈なのにやたら風格のある石柱だのなんだのとか。少年たちの訓練キャンプの夕食に、一人あたり鶏の丸焼きが一羽分支給されて、しかもそれが一口も齧られる前に「さぁ食事も済んだしもう寝るぞ」なんてセリフが平然と配置されていたり。この鶏の丸焼きがまた実に丁寧にCGが作りこまれた、テラテラとロースト表面が香ばしそうな、極上の焼き上がり風情だったりする。レストラン産じゃぁあるまいし、焚き火にかざして焼いてその滑らかさは無かろうよ、と。
そして思った。丁寧に細かく作りこめば作り込むほど、リアルを目指せば目指すほど、かえって細かい粗や不自然が目立つようになってしまうのだ、という事を。
描写、というものは、凝れば良い、というものでは決して無い、ということを。やり過ぎはかえって作品の調和を損ねてしまうのだ、と悟らされた一本でもあった。

だが、辛口はこのくらい。オーソドックスとダイナミズムは、保守と革新の対立のようなもので、大抵は対立する。だが当作は、この相反を見事なハーモニーに収めてみせた。一少年の鬱屈した日常から、発見と挑戦と冒険と、大活劇と勝利に至る王道そのものの道筋を、丁寧に、誰にも分かりやすい形で、心に深く納得出来る形で見せる作品。言葉にしてしまうとあまりに簡単に記せてしまうこの事が、実は成立確率の大変に低い難事業であることを、私はイヤになるほど知っている。ヒックとドラゴンは、稀に見る大成功作である。目白押しの話題作に押されて興業が振るわなかったのは残念だが(ゴメンヨォ我が家も観に行かなかったよ)、真の意味で大人も子供も楽しめる傑作映画の一つとして刻まれるべきだろう。


ドラゴンに乗って澄んだ夜空を自由奔放に駆け巡る出色のシーンは、オールドのオタクの私に「わんぱく王子の大蛇退治」のフチコマデートシーンや、アラジンの絨毯飛翔のシーンなどを思い起こさせ、しかもその全てを凌駕する最高の美しさだと胸をいっぱいにさせてもらった、世にもありがたい出来だった。眼福そのもの。

本来ならば3Dで観るべきであろうし、それでなくてもせめて大画面で観るべき一本。だが「じゃぁレンタルもやめておくか」なんて選択肢ほど勿体無いものも無い。どんな形だろうと、とにかく観ましょう是非観ましょう。とりあえずまた連休が来るわけなので、皆様さぁさぁ最寄りのDVDショップもしくはレンタルへ、レッツGOGO!

2010. 12. 02  
夫の人が座席を押さえてくれたので、初日夕方、新宿バルト9で実写ヤマトを鑑賞。
大変オシャレな新型シアターのバルト9は平日だというのに満員御礼状態。凄いっすね。さすがヤマトというべきなのか。
実はこの日の昼は久しぶりに養護学校のPTAランチ会だったのだけど、普通の女性の集まりの談話にありがちなパターンの、2、3人ずつくらいに話題のグループが分裂して混じり合わないワイワイが
「今夜ヤマト観に行くの」
と言っただけで、テーブル全部がいっせいにその話題に集中したのはかなりのビックリだった。
『なるほど、これがキムタクというトップアイドルを主役に据えて、テレビという大型メディアで宣伝を打ちまくる、ということの意味であるか』
と納得したことであった。
なぜなら、皆さんそもそもヤマトがどういう作品であるのか、ということをまったくほとんどご存知ではなかったのである。

「話題になっている」

重要なのはつまりコレ。衰退し始めているとはいえ、やはりテレビの力はまだまだ絶大なのだ。


ヤマトは私のオタク人生の原点、原初と言うべき作品である。
隆盛を極め、世界に広がる代表的日本文化の一つとなったオタク文化というものの原点でもある。
すべてがヤマトから始まった、ということを今でも私ははっきり覚えているのだ。
あれから40年近い年月が流れてもなお、鮮明な衝撃。
「こんなものは今まで観たこともない!」
というショックとインパクト。
「好き」というありふれた感情を遙かに超える、言葉にできない執着を初めて抱いた体験でもあったと思う。

好き。好み。大好き。
そういうものが追いつかない激しい思い。
愛、と呼ぶしかないのだろうか?
いや、ここまでの年になると、私はその言葉はなるべく使いたくはないのだ。
ヤマトについて語るならばなおさらである。
それが何故なのかは、私と同世代の、青春をヤマトとともに過ごした方々の多くが頷いてくれるはずであろうと思う。
ヤマトのスタッフがまさに「愛」「愛」と唱えるようになり始めた頃から、私にとってヤマトはどんどん厭わしい、辛い、苦々しい、忌避すべき嫌なものに変貌していったのだ。その心理の奥には「裏切られた」という想いがあったと思う。
ヤマトを通して、私は大人の世界の汚さを学ばねばならなかったのだ。口先でどれほど綺麗事を連ねようと、行動がそれを裏切ってゆくやり口というものを。物事を誤魔化し粉飾し、宣言を翻すためにさらに重ねる美辞麗句。すべては金のため。商売のため。少しでも多く儲けるため。
それはすなわち、人間の世界がどうやって廻っていくのか、維持されるのか、という現実の奥深さそのものでもあった。

私とて、すでに老境だ。
大人の事情、というものがどれほど身も蓋もなく、仕方のないことであるのかということなど百も承知である。
若い頃、あれほど忌避し憎み嫌い恨んだモロモロのことどもを、すべて受け入れ飲み込み、あるいは受け流して納得して済ませることが大人のやるべきことだとも知っている。

それでも。それでも、なお、だ。
「私の愛したヤマト」
心の中にこれが占める位置ってものを、なにかに譲り渡し、塗りかえることなど出来ないのだ。ランドセルを背負った少女の頃からずっとずっと変わらずに抱えて持ち続けた、大事な人生の一部なのだ。

実写ヤマトは、私の愛したヤマトを蘇らせてくれるのだろうか。


******************

で、どうだったのかって?
言いませんよそんなこと。まだ公開二日目じゃありませんか。何も言いませんよ今日はまだ。


でも、そうね、一つだけ。たった一つだけ叫んでおこう。








ギバちゃんの真田さん凄ぇぇぇぇぇぇ

完璧だった。真田さんそのものだった。生きて動く生身の真田さんがそこにいた。声色まで、青野さん演じるところの真田技師長まんまだったのだ。アナタ、どんだけ真田さん好きだったんですか! いや。「好き」だけであそこまでの領域には行けない。まさに、好きだの愛だのそんな俗まみれのありふれた言葉なぞが追いつくべくもない激しい何かを、彼もヤマトに抱いていたのではなかろうか。

真田志郎。ヤマトの真田技師長は、私が初めて恋した二次元だった。彼を思うだけで直ちに制服姿の女学生気分が戻ってくる、そんな存在なんである。
柳葉さん。ありがとう。真田さんになってくれて、ありがとう。

**************************

内容については語らないけど、予告編観て思ったことくらいはまぁえーやろ。

なんと! SF作家眉村卓氏の実話が映画に! なんと、なんとー!

そして実写「あしたのジョー」の力石がなんか凄い。ただならぬオーラ。期待していいかも。

2010. 11. 03  
「映画ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー……ですか?」

人気TVアニメの劇場版というのは、たいていハードな環境で作られることが多いので、感心できない出来になることの方が多い。TVエピソードにちょいと毛が生えた程度の尺でまとめるくらいが関の山とか。
だから正直、なめていた。

だがしかし!
結果は、家族3人全員がほぼ腰を抜かして呆けてしまうほどのハイクォリティだったのだった。
(おじゃ魔女)どれみちゃん絶対至上主義を掲げて
「たたかいのあるアニメはキライなんだ」
とプリキュアを拒んでいた息子が
「これからネット動画でプリキュアを見なくちゃならないんだ」
と息巻くし。

「こんな骨太な良作を見ることになるとは思ってなかったよ」
と、やはりハトプリ以前のプリキュアはノータッチだった夫の人も感嘆しきり。

そして、TVCMのみの僅か2,3カットに過ぎない登場シーンだけで「サラマンダー男爵」にガッチリハートキャッチされてしまっていたアタクシは。
サラマンダーとルーガルー・オリヴィエとの出逢いのシーンからもはや既にガチ泣きの有り様。
その後もあっちで泣かされこっちで泣かされラストも泣かされ、最後はスッキリ良い気分になって劇場を後に出来るという、ほぼ最高点に近い映画鑑賞となったのだった。


さして期待もせずに観てみたら、もの凄い良アニメであったのでビックリ、という点では、クレヨンしんちゃん劇場版の衝撃に匹敵するかも知れない。

とにかくこのプリキュア映画、演出がむやみやたらと手堅いのだ。
そして、お話に詰め込まれた設定とエピソードの多彩さがあざといまでに豪華。
まずもってプリキュアであるから、多くの美少女。
花の都・パリの観光案内的背景。
どこかヴァンパイア貴族を思わせるスタイルの、スラリと優美な美形悪役と美少年の、邪気眼チックな厨二病炸裂設定。
さらに追加でヤオイの根元と呼べるテーマ、「みなしごがみなしごと共に在る」状況。
華やかでパワフルなバトルアクション。
破壊と浄化。
「パワーが足りない! プリキュアがピンチだ! みんなの力を貸して! さぁ入場の時に配ったそのライトをかざしてーっ!」とまぁ、老年特撮オタクがありありと昭和を懐古してしまう「突撃ヒューマン」仕掛けそのままの、観客参加イベント。

なんとまぁ贅沢な盛りだくさんであったことよ。

だが、良い要素を詰め込みさえすれば優れた作品になるのか? と言えば、それはまったく、そうではない。
小説、マンガ、映画、ゲーム、演劇、様々なジャンルで多くの「物語」に触れてきたが、最近つくづく思うのは、感動を呼び起こすために大事なこと、というのは実は

「何を語るか」
よりも
「如何に語るか」
なのだなぁ、ということなのだ。

実際、物語、お話、というものは、さしてバリエーションが豊富なわけではないのだ。
誰の分析だったか、パターンとして数十種類も存在しない、という説がある。基本のテンプレート、あるいは原型のようなものが古来よりあって、応用が増えていくだけなのだ、という。

プリキュア達と、サラマンダー達との関わり合いは、さして目新しいところの無い、ありがちで平易な展開ではあったのだ。

ではなぜ、この作品のいったいどういう点が、観ている私たちの心を揺さぶり、感動に至らしめたのか。
一言で言えば「丁寧」この一語に尽きる。

その人物、はどういう者なのか。何を思い、どう振る舞い、どう反応するのか。
その背景、はどういう場なのか。どんな空と大地と建物で出来ているのか。
その戦い、はどういう動きなのか。なぜぶつかりあい、どんな力で、どう勝敗を決するのか。

こういったモロモロの事すべてに細かい注意を払い、観察と洞察でもって描き表すモノを決定しているのか否や。
絵空事でしかない架空を描くのであればなおさら、こういうことが重要なのだ。
演出が優れている、というのは、こういうことがちゃんとこなされているかどうかということなのだ、と私は思っている。
ここをオロソカにしてしまっては到底、絵空事でしかない架空に、人の心を惹きつける魅力を持たせることはかなわない。ファンタジックであるほど、演出のハードルは上がるのである。

ハトプリ映画の演出は、この高度なハードルを軽々とクリアする剛力を示していた。見事である。もちろん、堅実かつ流れの良い脚本もあればこそだが。いやぁ良いホンだった。サラマンダー達の過去をあえて細々セリフで語らせない、という選択のセンスには痺れた。

監督は、松本理恵さん、と言う人。記憶には無い方だ。Wikiにも記事が無い。新進気鋭?
脚本は、栗山緑さん、となっているが、Wikiるとそのそうそうたる実績は大山のごとし。ベテラン中のベテラン。
ブラヴォー。素晴らしい。エクセレントでした。


最後に。
オリヴィエ担当の大谷育江さんと、サラマンダー担当の藤原啓治氏の巧さには舌を巻いた。最後テロップが出るまで気づかなかった不覚の私。「巧いナー、巧いナー、でもってなんだかとても新鮮ダナー」……って、どちらももうベテランじゃん。だが、真の声巧者というものは、「それが誰の声だったかを最後まで観客に意識させない者」という信念も私にはある。流石!

プロフィール

星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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