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2009. 12. 31  
30日、久しぶりにコミケに出撃。目指すは二日目、俗に言う「腐女子の決戦日」? てことなのかな?

目当ては、栗本さんの同人誌である。
商業出版を目指すことなく、完全に趣味として書き綴られてきた作品群を栗本さんは大量にお持ちだった。
何年か前から、それらをすこしずつ同人誌というかたちで出版なさってきたのである。
例えば、グイン・サーガのサイドストーリーとか。
東京サーガの一部、「キャバレー」の矢代俊一のその後の人生であるとか。
中島梓さん名義のオリジナルミュージカル「ヴァンパイア・シャッフル」のスピンオフ小説であるとか。

グイン・サーガの刊行は先日終わってしまったが、同人誌の発行はまだ残っているのである。
夏の新刊も併せて、4冊ほど購入。一冊のボリュームがハンパないので、価格もまぁ相当ではあるのだった。ずっしり、重い。

とにかくの目当ては達成したので、西ホールを徘徊。私よりも年季の入った年配の御婦人(あえて言おう、貴腐人であると)がめっぽう多く、実に心和む。みなさん、ステキだ。歴史関係エリア、広いなぁ。うお、ホームズ本はわかるけど、その隣にあるエラリー・クイーン本が素敵すぎる。ぬぉぉ、ハリー・ポッターエリアにて「ジェームズ×スネイプ」本発見! ええいクソ、私は貧乏なんだ! そんなにあれこれ買えないよ!

ずっと日常体験漫画を描いておられる浪花愛さんのブース発見。最新刊を5冊ほど購入。お嬢さんがとても綺麗な大人の女性にお育ちで、大変に感慨深い。

2時間も徘徊してたら、体力的にも精神的にも電池切れが迫ってきた。東ホール? そこまで向かう余裕なんぞあるかw ボイチャメンバーが参加していたのは判っていたけど、まだ、この老醜ヅラを晒す度胸も無いし。

帰宅後、疲労困憊で夕方から夕食まで睡眠、夕食後からまた睡眠。どこまで体力不足なのやら。

そして、趣味に徹した栗本さんの小説は、天の果てまで限界突破の容赦なき高みと深みなのだった。さすがはヤオイの真祖様。誰の追随も許すまい。
マルガサーガ2「みずうみ」、序盤からもう完全ノックアウト気味の私。

例えば、ごく普通の感覚しか持たない人が(たとえグイン読者であっても)、これを読んでどういう感想を持つのか、そんなことは私は知らない。どうでもいい。
肝心なのは、これが何のために書かれたのかということと、私がこれを読んで何を得るか、ということだ。
そこにあるのは、並のもの、ありきたりのもの、ごく普通のもの、健全なるがもの、そんな「一般性と呼ばれるもの」全てを一切拒否せざるを得ないほどの飢渇と希求、そしてそれを癒さんとする返答である。
人間の心の傷は、痛みは、哀しみは、どうすれば癒されるのだろうか?
結局は、「共感」しか無いのではないのだろうか。それ以外も役にたたないとまでは言わないが、所詮対処療法でしか無いのではなかろうか。

なぜ、ヤオイという文化は生まれたのか。
なぜ、栗本さんはその文化を創造し、伝道し、育成してこられたのか。
「みずうみ」冒頭の「湖畔日記」にはその答えの真髄がある、明確すぎて痛いほどに。
正伝には決してあらわれることの無い、クリスタル公アルド・ナリスの隠された心の真実。
それに触れるだけで私は深く癒される。他のどこを探しても見つからない稀有な同感がそこにあるからだ。
そりゃぁ確かに私は超絶がつくほどの美形・イケメン狂いで、年がら年中美麗男性の姿にハァハァ涎を垂らして生きているバカミーハーであるのだが、だからと言って、それだけのことで「これまで世に生まれた中で最も美しい男」のアルド・ナリスを愛しているわけでは断じて無いのである。

ともあれ、購入してきた同人誌のおかげで、年末年始はこの上なく幸せに過ごすことになるだろう。第九もできれば聴きたいな、あと、紅白での絢香ちゃんのとりあえずのラストステージは見逃せないな。
みなさまも、良い年末を!ヽ(´ー`)ノ

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2009. 12. 25  
今年のクリスマスケーキは息子のリクエストによるイチゴのショート。
泡立て、デコレーションを全部息子におまかせ。
ちょいと、いやかなりイビツ。だが、そこがいいw

画像 086

夫の人が買ってきた紫の薔薇といっしょにパチリ。当然、大変に美味だった。ちゃんとした生クリームだし、こんな見かけでもそれなりの材料費(特にイチゴ)。


息子へのプレゼントは、夫婦合同で買ったデジカメ。それも動画撮影に特化したやつ。あとハイネック長袖シャツを2枚。
息子からのプレゼントは、私にはムカイリーがCMしてる「バブ・ローズガーデン」、夫の人にはアーリータイムス。バーボン、というリクエストに応えて、酒屋で瓶を探して貰ったそうな。

私から夫の人へのプレゼントは、iPhone用の望遠レンズだったのだが、Amazonの発想処理が遅くて間に合わず。

で、夫の人が私にくれたのは、新しい腕時計とボイチャ用のUSB据え置き型マイクなのだった。それなりに指向性があり、音質に広がりが出た、と好評。(多分)

ローストチキンもそこそこ美味しく仕上がって、満腹満足ヽ(´ー`)ノ
ちょっとバーボンなぞを分けて貰ったら、普段呑まないものだから、あっという間にバタンキュー。変な時間に寝込んで変な時間に起きたり。

どうも調子が整わないので、今日は久しぶりに近所のカラオケボックスで独カラ。2時間たっぷり歌いまくって500円切る支払いは素晴らしすぎる。平日割引きマジぱねぇ。
え。
Wiiカラオケはどうした、って?

あれも悪くはないんだけど、やっぱり私、仮面ライダーブレイドとかGAROとかマクロスフロンティアとかを本気出して練習すると、近所迷惑なんてものを通り越した音波兵器になってしまうので、やっぱ、ちょっと、ねぇ(;^_^A
近所には赤ちゃんのいるおうちもあるし。

ほどよく喉もほぐれて、大汗もかいて、良い感じにアップしたのだった。
また、行こうかな。

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2009. 12. 23  


デビュー40周年 萩尾望都原画展。
混雑を避けて、昨日の午前中に行ってきた。

「世界で一番の漫画家さんは誰だと思いますか?」
こう訊かれたら、私は迷わず「萩尾望都さん」と答える。
世界にどれほど他に漫画家が数多く居るか、そのほとんどをもはや私が知らないことは判っている。
だとしても、私のこの確信は揺らぐことはない。
どれだけ売り上げようが、どれだけ多く映像化されようが、どれだけ多くの人の言の葉に登ろうが、そんな数字なんぞは私にとって無意味だ。
マンガとして。作品として。作家としてどうなのか。これだけが総てであり、その意味合いにおいて、萩尾さんを超える漫画家が出現した、という記憶なんぞ今に至るまで皆無だと断言する。
で、この確信についてぐじゃぐじゃと解説するつもりなんぞ、無い。
「世界には、どうしても判らせられないことというのがあって、ただ、それを知っているか知らないかだけなのだ」
うろ覚えだが、アーサー・C・クラーク「都市と星」より。


会場はやや小さめであったが、展示は素晴らしいものだった。マンガ原稿原画、カラーイラスト原画のみならず、人形作家さんによるキャラ人形の展示や、ずっと萩尾作品を舞台化し続けている劇団の衣装や小道具などの紹介展示もあった。おそらくは「小鳥の巣」時代のギムナジウム制服を着せられたエドガーとアランの人形の顔だちの素晴らしさなんぞ、見ているだけで魂を吸い取られそうな美麗さと深さ。キャラに対する筆舌に尽くしがたい愛に溢れていたのだった。

どの作品の原稿もある程度の長さを考慮して連続的に並べられており、「ああ、これもこれも」「そうそう、このころの絵はこんなんで……」と感慨深く読み耽る時間。
神懸かりの完成度を誇るたった16ページの短編「半神」は、丸ごと閲覧が可能であり、展示空間の統一イメージと静謐さ、原画の迫力もあいまって激しい感動体験となってしまい、何度も冊子で読み返してきた作品であったにもかかわらず、涙をこらえるのに必死にならねばならなかった。

いったい、どれほどの破格のロマンを、ドラマを、世界を、この人の作品は紡ぎ続けてきたことだろう。SF、ファンタジー、日常文芸、ラブコメ、深い深い精神哲学にいたるまで。どれほどの繊細な筆致で描き続けて来たことだろう。私が一番好きな作品「銀の三角」のハードカバー版の表紙原画の、人間の手で描いたとは信じられないような細い細い「白い」描線の重ね描きで表される煙るような銀髪の存在など、原画を肉眼で見るまで判らずじまいだったろう。生きている間に目の当たりに出来たことに心から感謝するのだった。

まー、一番好きな萩尾作品とか言い出すと、実は「銀の三角」と「スター・レッド」が壮絶なつばぜり合いを始めちゃいますけどね、私の場合。

さぁさぁ、まだ萩尾望都作品を知らぬ人々よ。
日本人と産まれて生きて、これを知らぬまま死んでゆくなど、なんともったないことだろう。
「もっともっと面白い人生が欲しかった」などという後悔を抱えて死んでゆく痛恨を減らし得る希有な存在。数少ないそういう珠玉の一つがまさに萩尾作品である。何でも良いので、手にとって読んでみられることをお薦めする。

けっきょく、嗚呼、これも読み返そう、あれも読み返そう、幸い、捨て捨て病持ちの私でも、萩尾さんの本はずっと抱え持っているので、ガチで再読始めたら何ヶ月もかかってしまいそうだけど、でも読み返そう! そう決意するための展示でもあった気がする。

物販コーナーも大変豊富で、トーマの心臓の金属しおり1500円など、メチャクチャ欲しかったのだが、年末の財布は大変に淋しかったりもしたので、泣く泣く最新刊の「スフィンクス」のみ購入。ううむ、「バルバラ異界」あたりからこっち頻出の、年配女性の恋愛心理というテーマがここにも相当色濃く在る。やっぱ、灰になるまで、ですかね。

*************

でもって、まぁその、「誰がこまどり殺したの?」のイラスト原画の前で、どうしようもなく「クックロビン音頭byパタリロ」が再生されてしまう自分自身の因業さにはいささかゲンナリ。こんな素晴らしい空間でそんな茶々だのオチだの要らねーんだよ、私の脳!ヽ(`Д´)ノ





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2009. 12. 20  
観てきたじぇー、仮面ライダーMOVIE大戦2010

さてさて、とにかくネタバレだけはしたくない。
と、なると本当に、語れることは少なくなってしまうのだ。
あっと驚くアクロバティック構造に度肝を抜かれ、ついでに毒気も抜かれた感じ。

そして、ダブルの「ビギンズナイト」の物語に、やたらとしみじみ感動してしまい、思わずレイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」を読みたくなってしまったのだった。

ハードボイルド。
私は、長らくこういうジャンルを冷笑的にしか捉えてこなかった。独りよがりな男の幻想、思いこみ、気取りで構成されているはた迷惑なものだと判断していたからだ。狭量なロマンに酔っぱらった自己中の言動ほどウザイものがあるだろうか? いや、無い。ドキッパリ。何もかもしょせんは自己満足じゃねーか! ←と、こういう生き方でやってきたはずなのに、まぁ私も丸くなったものである。

ビギンズナイトは、良い物語だった。物語としてちゃんと出来上がっている作品の登場人物の言動は、まったき完成と完結を持つ。どういうことかというと、行動に説得力があるのである。
ある生き様。そして、その生き様の継承。このシンプルなテーマが実に素直に受け取れる形で描かれていた。
左翔太郎役の桐山君の自然な演技と趣が、常に変わらず、ダブルという、ライダーとしてはかなり異色のキャラクターと世界をがっちりと支えている。あまり好みの顔だちでは無いのだが、役をとにかく理解しておのれの物として生かし切っている堅実さがあって、たまらぬ魅力になっている。あの、ちょっと不安定なまなざしに映る、翳りとも、暗さとも、憂愁とも違う、「ほのかな悲哀」が実に良い。
ああ、そうか。
ハードボイルドって、悲哀を力に換えて戦う奴らの物語なんだね。
と、素直にストン、と納得できてしまったのだった(´ー`)

もちろん、物語世界だからこその、ハードボイルドの生き様にきちんとした行動が付随しているからこその感動だったのであって、これが身も蓋もない現実世界においての逃避目的としての観念論の垂れ流しに終始しているアホンダラどもへの嫌悪と軽蔑を減じさせるわけではないけどね?w 大事なのは、行動。そこんとこ、ヨロズヤ!



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2009. 12. 17  
ここ数日、ボイスチャットにはまっている。
もともとのきっかけはツイッターであり、その後いろいろ過程を経た上で、ずっとボイチャで毎日親交しているコミュニティにお邪魔させてもらうようになったのだった。
みんな主にオタクであり、話題に困らない。楽しい。
ただ、年齢層が大変に若く、稀に話が通じ合わなかったりするのだが。
どれくらい若いかというと、息子よりちょっと年上くらいのレベル。
なお、私が親の年代(ヘタすりゃもっと上)の婆である、ということは伏せてあるのだった。あばばばばw(リーダーさんにだけは明かしたけど)

そんなこんなで、持ち前の七色声を駆使して、ネカマならぬネワカ再びの日々なのだった。逆に言うと、親子ほど離れている年代なのに、話がそれなり破綻なく合うところが、オタク文化の素晴らしさだと思う。共通言語があることの偉大さを改めて確認中だ。

何年か前にPSUやモンハンなどのMORPGをやってるときにボイチャは活用していたが、今回のコミュニティは最大20人くらい居るという大所帯で、たいてい数名以上の発言が飛び交っている。にぎやかさのスケールが違う。しかもPCを通したボイチャの音声品質は大変に高いので、臨場感も半端じゃない。どうにも楽しすぎる。アニメ会のラジオを聴いてる方なら、雰囲気があれに近い、と言えばなんとなくイメージできるのではなかろうか。

連日ワイワイやっていて、ふと思い出すのは、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」だ。
数人のグループで壁面モニタを通して仮想人格を演じ続ける遊びに没頭する人たちが描かれたりしている作品。書かれた年代の古さを思うと、ブラッドベリ氏の先見に感心せざるを得ない。ただ、氏は、こういう交流およびプレイを、良い物としては描かなかったのだが。本が禁じられ、人々から叡智と思慮が喪われ、ひたすら感覚的快楽ばかりを追い求めるようになっていった、というTV社会に警鐘を鳴らす内容なのだ。

じっさいには、仮想現実的な交流を可能にしたネット文化の勃興によって、TVの勢いはどんどん削がれていき、若い人たちの間では読書熱が戻って来始めているわけだ。なぜならネットの情報は未だにその多くがテキストである。一昔前には「子供たちが読まなくなった、マンガすら読んでくれなくなった」と出版業界を嘆かせていたというのに、長じてネットに触れた彼らは、「読む」必要性を自力で獲得しているわけであるようだ。善いことである。

でもやっぱり、この集まりが局地的なだけなのかなぁ。最近、私の目には、世の中の人、「オタクな人」と「オタクでない人」に二分されちゃってるもんな。オタクならではのコミュニケーション成立であり、これが無作為の混然だったら、まったく違う雰囲気になっているかもしれない。

オタクというのは実はたいへん広義なのである。人としての生き方、在り方そのものであり、決して趣味の一つ二つを指すのではない。ずいぶん前から私はオタクの定義を固めようと試みているが、そろそろゴールが見えてきても良さそうな気が最近、してきているのだった。


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2009. 12. 12  
グインサーガ130巻「見知らぬ明日」読了。
ついに、これで最終である。本来400枚であったところを200枚での出版。最後の最後まで机に向かって、最後の一滴まで絞り尽くして起きあがれなくなるまで書き続けられて、ついに逝ってしまわれたことを、私たちは知っている。
130巻を手に取る。
薄い。
軽い。

そして、私はこの期に及んでもまだ泣けずにいるのだ。



最後に、初代担当、そしてご伴侶としてずっと栗本さんを支えてこられた今岡清氏の解説が添えられていた。
「誰かが物語を語り継いでくれればいい」と示唆され、フィナーレに「グイン・サーガミュージカル 炎の群像」のエンディングテーマ詩が添えられる。
(私の記憶が確かなら、この歌はCDでこそエンディングだが、あの絢爛たる舞台においては堂々のオーバーチュアであった。リギア役の福麻むつ美さんの圧倒的な迫力の歌唱による開幕を、私は生涯忘れないだろう)



語り継ぐのは、語り継げるのは、誰か?
貴女か。
君か。
それとも……?

私に出来ることは、グイン・サーガ、という作品があったこと、その存在がどれほど多くの人の心を動かし、支えていたか、ということを語ること。
世界と併走したもう一つの世界の存在の奇跡を、語り継ぐことくらいだと思う。
作品ある限り、梓様(栗本さん)のスピリッツもそこにある。
1人でも多くの人に、その存在を、スピリッツの継承を託すべく、私は語り続ける。
未だ、泣く時にあらず。
一生かけて、涙の代わりに語り継ぐ所存。



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2009. 12. 12  
なにやら異常発生のここ2,3日なのである。
3日前は夜中の1時に目が覚めた。
2日前は夜中の3時に目が覚めた。
昨夜はなんと一睡もしなかった。3日間で合計7時間くらいしか寝ていない計算。おやおや? なにがあってもメシは食べるし夜は寝る、この本能魔人な私の身にいったい何が?

想定できる理由としては、どうやら代謝がおかしくなった、というあたりなのか。減り悩んでいた体重も、この2週間で3キロも落ちている。毎朝のビリキャンが安定して行えるようになり、太もものフロントにミシッと筋肉が盛り上がってきたのを実感できる今日この頃。
さらに、毎朝熱湯を湧かして、魔法瓶に一日分の生姜湯を作って詰め、朝食もマグ一杯の生姜ココアや生姜梅茶などのみで済ませるようになったので、測ってはいないが、体温も順調にアップしているのか。

あと、考えたくは無いけど目を背けられない現実として「更年期障害」なお年頃突入、という事実がある。来春47ダモンナー(´_ゝ`)
異常について、考えられる身体的理由は上記くらいである。

他に具合の悪いところはまったく無し。むしろナチュラルハイ状態で、絶好調と言って良いくらいのハイテンションでお目々キンキラ(☆∀☆) 桜玉吉氏風に言うとオチャクラ全開、って感じ。

まぁ、あまり続くようなら医者行きますわ。


眠れない夜に、彩雲国物語「黄粱の夢」を読んでいた。最後に収録の「千一夜」が抜群に好み。
秀麗の両親、邵可と薔薇姫の恋物語なんである。囚われの仙女・薔薇姫を暗殺に来た若き日の邵可が一目惚れしてしまい手に手を取って駆け落ち……とだけ書けばありふれすぎの流れなのだが、さすが雪乃さん、キャラ描写にヒネリがあってとても良い。邵可のことを「このネジの締まり具合のおかしい新種の人間」と薔薇姫に言わせる辺りなんぞ、苦笑が止まらなかった。
彩雲国に出てくる男性キャラはどれもこれも「そこまで都合の良い理想化された姿ばかりってのもどーなんでしょ」と言いたくなるような結構な御仁ばかりだったりするわけで、まぁ現代日本女性に取ってまことに都合よろしい妄想チックな感じなのだが、その中でも紅邵可の若き日は、異彩を放っていると思うのだった。
これは私見だが、実に新しい感じがするのである。私たちを含めた上の世代が想像も及ばないような方向性で生きる若人。従来の常識で計れない行動、思想、思惑。
もちろん、それが芳しくないとされたときに「ゆとり」と罵られることになるわけだが、ネットを通じて自分の息子と変わらない世代の少年たちと多く交流できた私にとって、ゆとりと言われる世代には実に興味深い、新規な善が満ちていたりすることも多いと感じるのだ。主たるところで、女性に対するアプローチとアピールの仕方あたりか。押しつけがましくなく、しなやかで、「空気読め」じゃないけど、相手の意思や思いをとにかく慮ろうとする。聡い。
薔薇姫と出会ったころの紅邵可は、まさにそんな感じなのである。だからといっておとなしいわけでは決してなく、断固として意思を貫く強さもある。
人間を嫌い、人間をバカにし、それでも人間を憐れんではいた仙女が、目を回さんばかりに困惑して、「今まで知っていた輩とは違うのだ」と、共に生きることを選択するくだりが特に私のお気に入りなのである。

私たちの世代は、「新人類」と呼ばれた。
だが、本当の新種は、その私たちの世代が産み育てた、1980年代生まれの層なのかもしれない。ゆとり、とひとくくりにして侮ることこそ愚かである。総ては変わりゆく。新時代は新世代のためのもの。私たちでは生み出せない新奇な理念が、国家としての日本を作り替えていけるかもしれない。私たちに出来ることはせいぜい邪魔をしないこと、あるいは、少しでも後続の道筋をスムーズにするために、石ころの1つでも取り除くことだろう、と思うのだった。

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2009. 12. 10  
最近のお気に入りで、特に朝にヘビロテしているのが、「アルヴァマー序曲」

本来、もっとゆったりテンポで演奏される曲らしいが、私個人はこの速度でないとイヤである。

以前、私の葬儀にかけて欲しい曲として、マーラー5番最終章(指揮はゲオルク・ショルティだよっ、これ以外は許さないよっ)を挙げておいたが、このアルヴァマー序曲も外しがたい。そうだなぁ、じゃぁ出棺時にマーラー、この曲は、式次第の〆、追い出し時にもっとも相応しいかな。

こうしてどこかに書いておかないと、忘れてしまうから。わからなくなって適当なことをされるのもちょいとヤダもんね。
まぁ実際は事実葬でまったくかまわないけど。墓も要らない。灰をどこでもいいから海にまくべし。
世界中どこでも海に花を放り込めばそれが私への墓参り、になるから。便利でいいでしょ。


さて、萩尾望都様40周年記念展、いよいよ開催迫る!

これはなんとしてでも行っておかないとね。

モー様の作品にハズレ無し、まさに奇跡のクリエイターであらせられるわけですが、かつてはとにかく銀の三角やスター・レッドが何より好きではあったけど、最近やっぱりシミジミ心に迫るのは、残酷な神が支配する、と、バルバラ異界。年季が入るほど練れてる感。

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2009. 12. 03  
ローマを再び帝国として統合し、遷都を行い、怒濤のキリスト教化を推し進めた大王・コンスタンティヌス。
その後継は、3人の息子をはじめとした、多くの血縁者。
だが、その大半が、新帝都コンスタンティノープルの宮廷にて一気に惨殺されてしまった。
残ったのは、大王直系の3人の息子たちと、その従兄弟である二人の兄弟、ガルスとユリアヌス。
幼きこととて難を逃れ、だが幽閉も同然に僻地に押し込まれたガルスとユリアヌスがゆっくりと成長していく間に、3人兄弟は争い続け、結局次男のコンスタンティウスだけが残った。
単独皇帝として権力を握ったコンスタンティウスのもとで、帝国はますますキリスト教一色に染め上げられていくのだった。

ある程度成長したガルスとユリアヌスの兄弟は、突然皇帝に呼び出される。兄のガルスは副帝として帝国の防衛の分担を担わされるが、弟ユリアヌスは、骨の髄からの学者気質ということもあり、ギリシャ哲学を学ぶための留学を許されるのだった。

幽閉を解かれ、ようやく陽のあたる場所に出られた兄弟だったが、猜疑心が強く暗愚なコンスタンティウスによって、兄ガルスは処刑され、学究の徒でしかなかった24歳のユリアヌスが突然副帝に任命された。
戦闘の経験はおろか、政治も軍事のことも何も知らず、ひたすら静かにギリシャ哲学や文学を学び思索にふけっていただけの青年が、蛮族が我が物顔に暴れまわる広大なオチデント(西方ローマ)、すなわち、ガリア、イスパニア、ブリタニアの平定を任されてしまったのである。

「おお、プラトンよプラトン、哲学の一学徒というのに何たる大仕事!」

ことあるごとにこう譚じながら、自らを鼓舞していたというユリアヌス。遠征地につれていくことを許された供回りの数はわずか4人、それ以外の人間はすべて皇帝のスパイであったという。ほんの僅かな失点でもあれば直ちに通報され、兄のように殺されてしまうことは明白。針のむしろのような状況で、それでもユリアヌスは全力を尽くす。哲学の学徒であるからこその、他者へ対する義務感、責任感、使命感、探究心と思考力。ありとあらゆる力を動員して、政治的改革と軍事的成功を立て続けにおさめていくのだった。
荒廃していたガリアの版図は、ユリアヌスの元で、徐々に秩序と安定を獲得していった。

そこに、皇帝からの非情な命令が届く。ペルシャとの戦争のために、選りすぐりの兵をよこせ、という命令である。その数、およそ1万。たった2万あまりの兵力のみしか与えられていなかったガリア軍にとって、まさに命取りの命令だった。
だが、ユリアヌスは粛々と命に従おうとする。従おうとしなかったのは、兵たちである。ペルシャになど行かぬ、とストライキを起こし、ついに「ユリアヌス・アウグストゥス!」の叫びを上げるのだった。正帝になってくれ、ということである。
ユリアヌスは結局、これを受けた。またしても、内戦必至の状況に追い込まれるローマ。ペルシャとの戦いを放り出し、ユリアヌス討伐にむかうコンスタンティウス。だが、ユリアヌスと彼に心服していたガリア軍の士気は高く、電光石火の行動で、たちまち戦局はユリアヌス側に有利となる。
だが、対決は起きなかった。コンスタンティウスが突然の病に倒れ、死んでしまったからである。
新都コンスタンティノープルに無血入城を果たしたユリアヌスは新しい唯一帝となり、ローマ帝国全土を統べる立場となった。幽閉暮らしから解放されてわずか9年後、29歳の皇帝だった。

だが、哲学青年皇帝・ユリアヌスが首都コンスタンティノープルで目の当たりにしたものは、バカバカしいまでに肥大化した官僚組織が無駄金を喰い続ける統治体制だったのだ。
寒く荒れ果てたガリアの地で、なけなしのリソースを必死で使いこなして帝国版図を保持してきた清貧なユリアヌスにとって、虚飾にまみれた中枢の腐敗は、許せるものではなかった。宦官たちに支払われる金額だけでも、ガリアで血を流して戦い続ける兵士たちすべての俸給を上回る、という現実に激怒するユリアヌス。
かくして、運営の無駄を削ぎ落とし健全化させるための、ユリアヌスの大改革が始まった。
同時に、半世紀の間ローマ皇帝の名のもとで推進されてきたキリスト教の優遇にも大幅な制限がかけられる。制限どころの騒ぎではない。キリスト教徒と教会が享受してきた権利はほぼすべて取り上げられ、昔ながらのギリシャ・ローマ由来の神々、およびありとあらゆる宗教が再び平等に扱われるべく、多くの神殿の再建が開始された。キリスト教会の社会支配が腐敗と肥大に直結している、と判断したユリアヌスは、教育の現場からすらキリスト教の教師を追い出すのであった。子供にキリストの教えを伝えたければ、教会で教えればよろしかろう、ということである。政教分離は当たり前、文教もまた分離されなければならない、という発想だったのだろう。

だが、理想に燃えた若い皇帝の様々な改革は、当然のことながら、既得権益を侵された多くの人々の反発にあう。
半世紀にわたって、キリスト教の天下であったローマなのだ。
唯一神を奉じる宗教にとって、他の神々はすべて異教であり異端であり、糾弾と排斥の対象である。大王コンスタンティヌスは当初こそ「すべての宗教は平等」という形をとったが、その後、親子二代に渡る、徹底的とも言えるキリスト教偏重と、他宗への迫害は激しさを増す一方だったのだ。そこへ、すべてをひっくり返さんとするユリアヌスの改革である。
おそらく、彼は急ぎすぎたのだ。あまりに一時に全てを変えようとして、ひどい軋みを産んでしまったのだ。
だが、若き皇帝はとどまることはしなかった。自分を信じ、理想を信じ、今が間違っていると信じて、時代の流れに抗っていく。大王の血族として生まれながら、様々な苦難苦渋をなめつくした半生。弱体され歪んでゆく社会と、荒れ果てた領土を見、自分の手でそれが回復してゆくのも見た。その経験は、ユリアヌスに揺るがしがたい信念を植えつけていったのだろう。

「私は、キリスト教徒たちの信ずることが現世でも現実化できることを皇帝として実証してみたい。彼らの説く徳と幸福は、公正な統治と、宗教に無関係な福祉事業の推進によって達成できる」

ユリアヌスが書き残した手紙にはこう書かれていたそうである。彼は、帝国が力強く輝いていた頃には、どんな賢人も看破することができなかった一神教の抱える問題点に気づき、それがもたらすであろう荒廃をなんとしてでも食い止めねばならないと、思い決めていたのではなかろうか。


やがて、前帝が放置していたペルシャとの決着をつけねばならない時がやってきた。
だが、もはや戦役はガリア時代のようにはいかなかったのだった。帝国中のキリスト教徒の反感を買っていたユリアヌスは、様々な妨害やサボタージュの嵐に悩まされる。敵はペルシャではなく、すでに身内そのものだったのだ。ローマ、ペルシャ、双方ともに決め手を得られない、悲惨な消耗戦が続き、戦乱の中で槍に貫かれて倒れるユリアヌス。

彼の死ののちローマはたちまちのうちに彼の施した政策のほとんどを放棄し、法令を無効化し、もはやとどまることなく、帝国はキリスト教が支配する中世へ向かって転がりだしていくのである。

キリスト教を押しとどめ、かつてのギリシャ・ローマ的世界に回帰することで大いなる恢復を目指したユリアヌスを、その後の世界はこう呼んだ。「背教者ユリアヌス」と。

だが、もともとユリアヌスはキリスト教の信者でもなんでもなかった。ギリシャ古来の哲学を学び、ローマの何たるかに通じ、崩壊してゆくスピリッツを目の当たりにして、それをなんとか呼び戻そうと試みた人だったのである。背教者、アポスタタという呼び名は、むしろ輝かしい贈り名であるのかもしれない、と塩野さんは結ぶのだった。



**********************
ここだけ、グイン読者だけ向けのお話。
黒太子スカールが、ハンニバルの役割を担っていたように、ヴァラキアのヨナが担わされる運命のロールは、このユリアヌスのそれだったのかも知れません。
**********************


なお、このエントリは、導入したてのGoogle日本語入力システムで書きました。なかなかの使い勝手。




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2009. 12. 01  
寒い日も増えて、体調が思わしくない日が多い。ちょっと増えてしまったのでもとに戻したい体重も、なかなか下がらない。
いろいろとヤバイので、体温を上げて健康になる本、なんてのを読んでみたりする。
本1冊分あっても、内容的に要点になるのは「生姜を活用すること」「運動して基礎代謝を上げること」の2点だと判断したので、もう毎日、生姜汁をなんにでも入れる。紅茶やココアとの相性は元から良いが、慣れると意外とコーヒーやみそ汁にも馴染むことを発見。

毎朝のビリーズブートキャンプも再開。無理しすぎるとたちまち腰を壊すので、せいぜい30分が限界だけど。
しかし、体重減らないなぁ。筋肉がついてきたから、と好意的に解釈しておこうかな。

時間の使い方が下手になってきたのか、無意識にぽかーんとする時間が増えてしまったのか、前にもまして1日が過ぎるのが早い。なぜこんなに時間がすぐ経ってしまうのだろう、と首をひねる。おかしい。なんかおかしい。

……ハッ(;゜〇゜)
もしかしてまたしても糖分不足?



ローマ人の物語、もはや終盤、「キリストの勝利」も半分を過ぎた。
とても意外だったのは、アジアの専売特許だと思っていた「宦官」というものが、崩壊寸前のローマにも存在していた、ということである。
国の運営が腐敗する頃には宦官の跳梁跋扈がありがちだ、というのを読んだのは、どなたの書いた三國志だったか。
まさかそのセオリーがローマにまで適用可能だとはまったくもって想定外。
宦官が増え始めたのは、首都が現トルコ・イスタンブールであるところのコンスタンティノープルに移ってかららしく、オリエントの風習が多く取り込まれた時代であったから、という理由であるらしいけど、それにしても文明文化人種の違いを超えたなにかしらの法則のようなものが、その事情の奥に潜んでいるのかも知れないと思うと興味深い。

大王コンスタンティヌス亡き後、後継者が血で血を洗う感じで殺され続けてゆき、国のトップは宦官の言いなりになっちゃってる、読むだけで辛くだるい感じの14巻。
が、しかし、そこに清冽な水流のような青年ユリアヌスが登場してくるあたりで、塩野さんの記述のテンションがガーッと上がった気がする。
次のローマ史感想タイトルは「宦官跋扈す」のつもりだったけど、やっぱユリアヌスの物語がらみにしておこーっと。

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星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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