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2010. 02. 26  
日記タイトルが3回連続でマンガのタイトル、しかもカタカナ続きというのは、単なる偶然也。

さて、「シグルイ」である。著者は山口貴由氏。 ←最新刊のAmazonのアドレスであるが、私が手に入れて、やっと今日読了したのは12巻まで。13巻はまだ買えてない。
私は、読む、のが速い。超速とまでは言わないが、通常の3倍くらいのスピードで読む。マンガを読むのも特に速い。1冊あたりで楽しめる時間があまりに短いので、趣味としては大変コストパフォーマンスが悪くなってしまうのが昨今の私にとってのマンガ鑑賞であり、購入も制限しなくてはならないので辛い人生ではある。
だが、そんな私が、このシグルイを読みこなすのにかかった時間たるや、えげつないと言うべきものだった。

「おかしい、話が複雑なわけでもなく、むしろ話があまり進まず、そして例えば「はみだしっ子」みたいに1ページ当たりのコマ数が多いわけでもなく、見開きや大コマばかりで、サクサク読み進むはずなのに、なんで。なんで、こんなに、読むのが重いんだ! 時間がかかってしまうんだーっ!! 20世紀少年(全24冊)やBECK(全34冊)なら1日で読めたのに!」

ほぼ絶叫状態で数日読み続けた。繰り返すが、全34冊のBECKなら一泊二日で済ませた私が、たかが12冊に数日かけてしまったのである。一体何事かと。

いやはやまったく、これこそは異常の作品、破格の作品、異端にして究極、並ぶもの無しの孤高の絶品と言えると思う。
似た傾向のある作品としては「ベルセルク」が思い浮かぶし、私は未読だが夫の人は「聖マッスル」を挙げている。

だが、比較は無意味かと思われる。

日本の漫画文化の歴史の中、様々な表現、描写の研鑽がなされてきたわけだが、このシグルイでの描き方ほど、極北に向かって先鋭化されたものもそうは無いのではないだろうか。比類無し、とはこのマンガのためにあるような言葉だろう。

とにかく画面が濃密なのである。それもそんじょそこらの濃密と一緒にしてはならない。ぶっちぎり、完全なる限界突破。ヒトコマ、ヒトコマにこめられる一瞬の密度の重さが、早読み、読み飛ばしを許さない。ガッチリと眼も魂も捕縛されて、スローモーションで展開される剣豪同士の究極の闘いに、剣技に、覚悟の深さと壮絶に、緻密に付き合うことにならざるを得ないのである。

この作品に、楽しさ、は無い。そんな気軽さを寄せ付けない残酷と酸鼻と苛烈の美に満ちている。

この作品に、萌えは無い。そんな甘やかなものなど薬にもしたくない世界。

ある種の生き様の人間にとって、色恋などより遙かに重要で大事な必至がある。生死よりもなお重いもの。
それを目指すならば、死と隣り合わせに狂わねばならないこともある。狂ってこそ果たせること。たどり着ける境地。人間でありながら人間ではない者になるしかない選択。鬼か魔物かケダモノか。「ひとでなし」、「キチガイ」、「異常者」、「変態」、そんな程度の言葉など薄紙より軽く吹っ飛ぶ壮絶な世界。
異端、異形としか言いようのないこの超絶の残酷と禍々しいまでの美を、よくぞ描ききっておられるものである。なまじの賞賛など追いつかない。驚嘆としか言えない。
漫画界が生み出した最高傑作の一つであることは間違い無いが、私はこれを到底、万人には薦めない。
読むならば、覚悟が必要である。(そういえば、著者の山口氏の出世作のタイトルこそが「覚悟のススメ」ではあったなぁ。いやゴメンナサイ、これまだ読んで無いんですよ、いずれ必ず読みますですハイ)

一般、であること。普通、であること。平凡であること、平和であること、和やかに、調和し、すべてを尊重しながら、善き社会人であること。
そういうことども総てに耐え難い思いを抱く人にこそ薦める。それでもやはり覚悟は持って臨んで頂きたい。この作品を手に取ったならば、目の前にあるのは生きて地獄に向かう扉に他ならないのだから。



なぜ、そこまで壮絶な残酷な作品が存在しなければならないのか、と問われるか?
存在は、必要なのである。
善なることばかりが求められる社会で生きることこそが地獄に他ならない、そんな人生があるのである。
対極の地獄に触れることによってこそようやく宥められ、解かれ、救われる魂があるのである。
異常、異形、異質、異端、そういうものに触れ、摂取し、解放を味わってこそ、ようやく「普通」の「善」なる社会に戻って生きていける力を貯められる。そうしてこそ穏やかでいられる。本物の残酷を現実にもたらすことなくやっていくための、それこそが平和のための手段なのである。
平和と安全のために仮想の残酷は欠くべからざるものであり、その存在を否定されるべきでは無い、と私は思うのだった。

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2010. 02. 22  
島本和彦氏著「アオイホノオ」読了。

まず夫の人づてに1巻だけを入手。前から読みたい、読みたい、と念じていたので嬉しかったのだが、夫の人が何度も警告する。
「痛いぞ~、読んでてむちゃくちゃ痛いぞ~」

痛い青春がプレイバックするからなのだろうか、と思いつつ読み始めたのだが、これがもうとにかく無茶苦茶に面白い。愉快。楽しい。笑って笑って笑いすぎた勢いで天井からホコリが落ちるのじゃないかと思うくらいに呵々大笑。
島本氏は私より2歳上、オタク世代としてはほぼかぶっていると言えるが、私が大学入学したころにはすでに漫画家としてデビューは果たしておられたわけで、正直雲の上の存在のようにも思っていたのだけど。大阪芸大で庵野氏や赤井氏と同輩として過ごしていた、という事実をこの作品を読んで初めて知ったのだった。

そしてここで描かれている、80年代初頭のオタクの青春、というもののカケラは、確かに私の青春の一部とピッタリ共通なのだった。懐かしくも楽しく、心から暖かくかつ熱くなる、遠くも微笑ましい青い日々。

わからん。
なぜこれが、そんなに痛いのだ夫の人?
そして夫の人にしてみると、この青春に痛みを覚えずにいられる私の方がよほど不可解であるらしい。
焔燃君、こんなに楽しくてステキでカワユスなのに。なんて愛おしい青年だろうと。

けっきょく、私自身の「オタク」としてのスタンスそのものが異端、異質ゆえであるかららしい、と結論づけるしかなかった。オタクと言えばイコールで劣等感と結ぶモノだと世間ではなっているようだが、私自身は自分がオタクであることに熾烈な誇りこそあれ、劣等であるなどと感じる理由など一切持っては居なかったからだろう。それは80年代の若い日々からずっと変わらずそうなのだ。

あと、夫の人に言わせると、焔燃君が、プロの漫画を観察して「こんなに下手でも良いなら俺でもいける!」とか思ってしまっているくだりが特に痛いのだそうだけど、これについてはまた別種の違う視点が私にはあったからかもしれない。
焔君(島本氏)は、少年漫画しか視野に入れてなかったから、なのではなかろうか。
私が見ていたのは少女漫画の方である。もちろん少年漫画もある程度は知っていたけど、やはり主眼は少女漫画である。それもあの24年組中心だ。萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、山岸涼子、三原順、枚挙にいとまもないほどの綺羅星の群れ。
そう、ハッキリと思い出す。私はあの当時、少女漫画の世界こそ、少年・青年漫画が逆立ちしたって追いつかないほどの高尚にしてハイグレードな世界だと信じて疑っていなかったのだ。描き方といい、内容といい、画力といい、テーマといい、少年青年漫画の世界に比肩しうるものなどほとんど無いではないか、と思っていた。そりゃぁ、知名度や売り上げ数字はまったく勝てないわけだけれども……と。
高名? であるらしい、漫画評論家と名乗る御仁達が「現代の漫画事情を語る」場などに何度も出くわしたが、彼らは一様に「少年漫画」についてしか語ろうとしない。少女漫画など眼中にも入れてないのだ。漫画、といえば少年漫画か劇画のことだけだと思っているらしいのだ。バカじゃないだろうか、今少女漫画を語らずに、漫画評論をやってるつもりでいるなどど何という暗愚迷妄、とせせら笑っていたことも思い出す。
ああ、もっと思い出した。そんな時代、私以上に情熱的に、激しく、詳細に、少女漫画について熱い評論を展開しまくっていたのが、文壇デビューしたばかりの中島梓さんだったことを。そのころ、私はまだ栗本薫という小説家としてのペンネームの存在も知らず、グイン・サーガもまだ手にとっては居なかった、ということも……。

思いっきり話が逸れたが、つまり私はあまりにハイグレードな作品ばかり追っていたので、プロというのはあそこまでの高みに到達した者のことだとも思っていたし、とてもとても焔燃君のような意識は持てなかったから、というのが、痛みを覚えずに他人事でいられる理由なのだろうと自己分析したのだった。が、こんな分析などどうでもよろしいw

あまりに楽しくかつ感動したので、「これだけはちゃんと続刊を自分で購入して手元に置く!」と決意したのだが、なんということ、既刊3巻のうち、2巻はすでに在庫切れであるらしいbyアマゾーン!
だが、私のヒートっぷりを確認した夫の人が、書店を巡って買いそろえてきてくれたのだった。ありがとう夫の人、さすがのサーチ力だぞ夫の人!

3巻は、なんだかとても中途半端なところで終わってしまっているのが惜しい。出来れば続きをゆっくりでいいから発表して欲しいとは思うのだが……天に祈るばかりである。もっと読みたいぞ!




さて次は「シグルイ」、ただいま5巻まで。12巻まで突っ走る!
しかし、ハートキャッチプリキュアを観ていると「心の種、心の種」と出てくる辺りで、虎眼先生の「種ぇ~」がプレイバックされるのには困ったモノである事よ。

図書館で「モンテ・クリスト伯」も借りてきたので、シグルイ後はこちらの予定。ああ、読みたい本が重なると食べる量が増える! 楽しいのだか辛いのだか。





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2010. 02. 20  
一条ゆかりさんの「プライド」12巻を書店で購入、読了。
ついに完結なのである。

物心ついた幼い頃から、少女漫画界の女帝として君臨し続ける一条さんの作品に触れ続けてきた。
そしてこの「プライド」こそが、私にとっての一条女帝のベストワン作品である。

プライド。
誇り、ということ。
真正のそれがいったいどういうことなのか。何をもって「プライド」と呼ぶべきなのか。
それをこれほど明確に示してくれる作品もそうは無かろうと思う。

帯にはこう書かれている。

「ずっと、生きるってなんだろう、命と誇りと尊厳ってなんだろうと考えながら描いてきました」

はるかずっと昔、私がまだ幼い頃の作品、まだまだ女性の社会的価値は奴隷同然に低く、「少女漫画」は「漫画」とはあたかも別物として存在するがごときモノとして評価すらしてもらえなかったような、そんな時代。
アパレル業界という熾烈な現場でトップランナーたらんとし続ける女性の烈火のごとき誇りと闘いを描いて、日本中の少女達に激しい何かを刻み込んだ「デザイナー」

幾十年を経て、その「誇り」にまつわるテーマは、熾烈さも激しさもまったく変わることなく、いや増しに輝いて、深さと確かさを強めて現代に至る。

精神的な支えをいくつも喪い、混迷を深めるばかりの日本社会において、「プライド」「誇り」「矜持」を問い直し、認識しなおすことは、最重要の課題の一つだろう。

最善の教科書の一つとして、迷いなくこの「プライド」を私は挙げておく。

「誇り」が存在するために不可欠な要素として
「愛情」と
「幸福」があらねばならないということと、そこに至るまでの必須過程として
「苦悩」や
「努力」もまたあらねばならないということ。
要するに、人生そのものがこの作品には描ききられている。
人、として生まれて死ぬまでの時間。
それが単なる苦しみばかりの退屈な経過と結果に過ぎないモノになるのか。
あるいは輝かしく彩り深い物語となっていくのか。それらを分けるモノはなにか?
「プライド」これこそが、答えであり、キーワードである、ということなのだとも思うのだった。




嗚呼それにしても、私はずっとずっと萌ちゃんに感情移入が激しくて、なんとしてでも彼女には幸せになってもらいたかったし、確かにそれはかなって、大層結構なことであったと思うのだけど、まさかまさかの以下ネタバレにつき自粛。
なお、舞台化もされるそうである。めでたす。

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2010. 02. 14  
塩野七生さんのローマ人の物語、なかなか読み進まなかったとはいえ、ついに最終巻「ローマ世界の終焉」も残すところ5分の1なのである。

ローマが衰亡してゆき、いよいよ滅ぶというこの最終巻、読んでいて本当に辛い。
偉大すぎた帝国が滅ぶこと。それはとてもとても多くの時間を経過をかけた、どこまでも先細りに長い長い終焉なのであって、塩野さん定義するところの「西ローマ帝国終了」は、ほぼ誰も気づかないほどの、ひそやかでかえりみられない静かな沈んだ終わり方であった、というくだり。まさしく、そういうものなのだろうと思わずにいられない。大きく重く怒濤の如くであった運行ほど、停止までに長い距離が必要なものなのだから。物理的慣性法則が形而上にも適用可能なのだと思うとなんだか可笑しい。

全力を尽くしてローマを守り抜こうとしたにもかかわらず、どんどん立場を喪ってゆき、やがては処刑・記録抹消というローマ人最悪の最期を迎えることになった「最後のローマ人」スティリコの生涯であるとか、悪夢の伝説として今にその名を広く残すフン族族長アッティラの、意外にもアホーな行動(がっかりだよ!!)とあっけない死に様であるとか、反して、蛮族の長として30万超の民を率いて大移動を敢行し、ローマ無きイタリア半島に33年に及ぶ「パクス・バルバリカ(蛮族による平和)」を打ち立てた東ゴート族長・テオドリックの見事な手腕であるとか、読むのが辛いとは言え、読み応えのある物語にはやはり事欠かないのだった。

特筆したいエピソードを一つだけ。

イタリア王を名乗り、帝国終焉後のイタリア半島にしばしの平和と安定をもたらした東ゴート族のテオドリックの施政の基本は、「従来あったシステムを有効活用する」という点にあった。
支配権はゴートにあるが、行政の実行はローマ人と、そのシステムをそのまま残す、ということである。
ローマが長らく伝統として護ってきた国家運営システム、官僚組織、そして次代の育成のための教育体制など。
だが、支配側であるゴートのテオドリックは、ギリシャ・ローマ式の教育によって、ゲルマン民族たるゴートの魂が変質していくことを厭うた。
ゴート族の青少年は、ゆえに、学校にいかなくてもよい、とされたらしいのである。キリスト教徒としても、異なる教えのアリウス派であったゴート族の子弟は、バリバリのカトリックであるローマの教会組織に教育を施されることも無かったろう。
結果としてどうなったか。
自分の名さえ読み書きできない支配者としてのゴート族の誕生、である。
よって、テオドリックは、署名をせずとも書類決裁のできる「印」を普及させることになった。
そしていよいよ、ゴート族は支配者階級でありながら、国家運営のためには、伝統の教育をきちんと受けたローマ人を必要とせざるを得なくなっていった、という、この上もなく皮肉な事態を招いたという。

教育。

人間社会が健全で安定したインフラを獲得するために、教育がどれほど重要なことであるのかを証明する、これもこの上ない事例の一つであると思うのだった。




さぁ、頑張ってあと少しの、この長大な物語を読み切ってしまおう。
その後には、ヴェネツィアに行くんだ。海の都の物語。そして、コンスタンティノープルにも。ローマ去りし後のブリタニアがどうなったのかも。砂漠を馳せた十字軍とサラディンとの物語も。行くべき場所は無尽蔵にあるのだから。



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2010. 02. 14  
いよいよ新戦隊「天装戦隊ゴセイジャー」の初回である。もちろん、家族揃って視聴。


……(^ω^;)

このビミョー感は、ボウケンジャー以来である、と夫の人と意見の一致を見る。
別に何が悪いというわけではない。ただただ微妙につまらないのだ。突出したものが感じられず、戦隊物に必要なものをとにかく無難に取り纏めました、という感じ。
この戦隊ならでは! という、売りポイント、個性のようなものが希薄なのである。
魔法と家族の絆を押し出したマジレンジャー、拳法の師匠と弟子の関係性や、悪心の無い悪側という斬新性のゲキレンジャー、愉快でノリの良すぎる敵幹部連でひっぱったゴーオンジャー、徹底した和風テイストで押し切ったシンケンジャー。ここ数年の戦隊は、個性的で主張の強い作品が多かったのだが。

説明セリフが、まんま説明だと判ってしまうシナリオにも問題はあったとは思う。

しかしそれ以上に、変身アイテムのイマイチさ加減とか。べっかんこなお顔にいかにも安っぽい紙製カードを突っ込んで変身とかカンベンしてください、という印象。
で、天使見習いと名乗ってはいるけど、その見習達のバックボーンがイマイチよく見えてこない状況とか、天使の敵なら悪魔なのかと思いきや、どうみてもただの昆虫軍の幹部連とか。なんか狙いがビミョーにずれてるように思う。(個人的には、イケメン萌え要素を完全に抑え込んだ力也ヴォイスには落胆を禁じ得ない)

どうも、企画時点で迷走してしまったあげくの、個性の喪失か、と思えなくもない。
つまり、シンケンジャーの上げた実績が少なかったと言うことなのか。
歴代の特撮の視聴率を一覧できるサイトというのがあって、たしかに残念なことにあまり奮ってはいない(5%台)。スポンサーであるところのバンダイが、戦隊という企画そのものにそろそろ危機感を抱いても仕方のないところかも知れない。

一つ評価できる点としては、レッド役の千葉雄大君が、一見ひ弱な優男風の美少年かと思いきや、意外とキツメの激しさをかいま見せる、多重性を持った不思議なムードを醸して出していることだ。演技力はいまだ海の物とも山の物ともつかないけれど、他の4人を引き離す存在感は確かにあると思う。

今後どう物語を展開していくか、キャラの魅力を打ち出していくか、もうしばらく視聴するつもりではあるのだった。


で、仮面ライダーWの来週の予告に、水木一郎アニキがガチでゲスト出演していてぶっ飛び。これは絶対に見逃せないぞ! と。楽しみ楽しみ。

2回目のハートキャッチプリキュアは、1話にもまして作画、演出共に満点クラスのHQで、可愛らしくも目が離せない。本来私は、気弱でヘタレなドジっ子なんか嫌いだし、そういうタイプのキャラは観ているだけでイライラしてくるタチなのだが、演出とシナリオがよくこなれているゆえか、不快感を覚えなかった。つぼみちゃんカワユス(・∀・)♪

で、ビックリしたのが、「おばあちゃんプリキュア」の登場である!
いや、かつての先代プリキュアが主人公の祖母だったってことらしいのだがね。
夫の人と試算して、おばあちゃんの現時点での推定年齢60前後。
キュアフラワーとして活躍していたのが、おおよそ昭和40年あたり、であろうと。
こうなると、昭和中期生まれオタクとしては、妄想の暴走が止まらないわけだ。
どんな少女だったのか? どんなファッションだったのか? どんな背景の中で生きていたのか? 
そしてなにより、変身後はどんな衣装を着ているべきか?

で、私はキュアフラワーは絶対、髪に花の飾りをつけていて、その花は5枚花びらのデザインだ! という確信があって譲りたくは無かったり。まぁ他にもこだわり色々。夫の人はロングヘアーをカチューシャで抑えているのではないか、と言うのだが、その時代の少女達は布のリボンを絶対使っていると思う、と言ってみたりとか、ね。
ウルトラQとかがTVで放映されていた時代に、1人の女子中学生がプリキュアとして心の大樹を護るために闘っていた……なんか想像するだけでゾクゾク興奮してきませんか、中年オタクの皆さん? 

これ、凄く愉しい思考実験である。下手すると「変身! キュアフラワー」ってネタだけで何冊も同人誌が作れてしまうのではないだろうか。てか、だれか作ってよ♪


あ、そうだ。
まるでまんま絶望先生のような、時代錯誤な格好のイケメン坊やに思わずときめいてしまった私であった。なんでそんな格好? いやそれを言ったらタキシード仮面だってそうだったんだけどさ。



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2010. 02. 11  
行ってきましたよ、東京ドームシティ内劇場「シアターGロッソ」

演目はもちろん、シンケンジャー素顔ショーだ! キャーッ、殿! 逢いたかったわーーっ!!

で、このGロッソが、思った以上に良い劇場なのだ。
かつて東京ドームがまだ無く、後楽園ゆうえんちと呼ばれていた昔から、この場所ではライダーや戦隊などのヒーローショーをずっと行ってきたわけで、その歴史は40年近くに及ぶ長さ。こってりと積み重ねられた伝統と実績があるのである。

屋外である利点(周囲をジェットコースターが取り巻いているので、それに乗ってヒーローが登場する奇想天外演出など)を存分に利用した野外劇場のヒーローショーのクオリティは大変に高かった。老朽化によってこの劇場が取り壊されてしまい、やや小振りな暫定的劇場として設定された「スカイシアター」のしょぼさには、そうとうがっかりさせられたものである。

だが、新たに屋内型シアターとして登場したGロッソ。かつての屋外シアターでは、大雨や雪などの天候不順に際しては中止をやむなくされたこともしばしばだったのだが、もうそんな心配も無い。足元が滑る危険を気にせず、役者達も大胆なアクションが可能なのである。

初めてGロッソに足を踏み入れてみてまず驚いたのは、その高さ、である。敷地そのものはかなり狭いことは判っていたので、かつての野外劇場に比べてかなり小振りになっているのだろうな、という懸念はあったのだが、ショーが始まってみて、かなり驚くことになる。他の劇場ではあり得ないような高さからポンポンと、奈落めがけて役者が飛びまくるのである。その他にも、任意の位置に垂らして映像を投射できるスクリーンや洗練された特殊効果の仕掛けや証明装置など、まさにヒーローショーに特化しきった特別劇場であると言えるだろう。

見事なりシアターGロッソ! この新劇場で、ヒーローショーはあと20年は戦える!

入場手続きが煩雑になり、観覧料も値上がってしまった痛さはあったのだが、ショーそのもののクォリティもアップしているので、やむなしというところか。

シナリオの方は、いかにもヒーローショーらしいてんこ盛り構成。
影武者であることが明るみに出た殿が囚われの身になってしまい、放ってはおけないと、魔界まで侍ズ&寿司屋が助けに行く。ピンチには真・シンケンレッドの姫(こちらは素顔無し)まで駆けつけて、黄泉がえった十臓やアクマロまで交えての大立ち回り。大詰め、会場の子供たちの大声援をモヂカラに変えて、一発逆転。
まさに定型どおり。だが、戦隊は定型どおりだからこそ良いのである。「型」を守り継承することでこそ生まれる価値。それこそが戦隊の真髄なのだから。

さて、生の殿・松坂桃李君の舞台映えはいかに!?
あれれ? 君、そんなに細かったっけ? あまりにか細く、設定的にも沈んでいる時期のキャラだから、捕らえられて、鎖に緊縛されてるシーンなんぞ、もうなんつーか、爆裂チックに妖しいまでに手弱女オーラが出てしまっていて、しょうもない私と来たらまっこといかがわしくもケシカラヌ興奮を喚起されてしまい「こ、これはまさしく、劇場版仮面ライダーカブトで天道総司が半裸で吊されて鞭打たれるあのシーンの再来のような以下略」てな感じで萌え炸裂ぐるぐる目玉@w@;;; ←いいかげんにしろ腐婆。

ぶっちゃけ、桃李君はやはり、役者としての磨きはまだ足りない。
俳優、役者としての真の価値は、舞台上での動きにもっとも明確に顕れる。
この点で素晴らしかったのは、やはりシンケンブルー役の相葉君と、寿司屋・相馬君だ。二人とも、俗に言う「丹田」が良く意識されている感じだ。役者として何より大事な要素である。
相葉君はテニミュで舞台の実績があるし、腰の入った安定した動きと歌舞伎役者、という設定に応じたケレン味ある動きもきちんと出来ている。さすがである。
だがさらに凄みを感じたのはやはり相馬君。なにせ彼は、シンケンゴールドに抜擢されるまでほぼ実績が無いのだ。それなのに舞台全体を喰ってしまうインパクトを発揮している。相葉君同様、腰が安定した、しかも派手で華麗な動き。シンケン勢でもっともタレントとしての可能性を感じる子だったが、生の動きを見てますますその確信を深めた。イケメン、美形、というわけでは決してないのだが、それを補ってあまりある素質が彼にはあると思うのだった。

だがしかし。
桃李君の、声の素晴らしさ、そして舞台で冴え渡ったのは、並々ならぬその眼光だった。まさに、天道総司として現れたばかりの頃の水嶋ヒロの目力の輝きに通じる、この世ならぬ何かを見ているかのような特別な光。
他を圧倒する彼独自の魅力。
演技力、基礎力などは、これからじっくり身につけていけば良いことだ。
あの眼光、独特のオーラがある限り、必ずや桃李君は頭角を現してくることになるだろう。
てか、現して。どうかこのまま消えないで。おばちゃんのお願いよーヽ(;´Д`)ノ

他のメンバーも存分に見せ場たっぷり、そして可愛らしく、女の子二人の大ファンの息子も大喜び。
毎度ながらの大満足を抱えて水道橋を後にしたのだった。

そして司会のお姉さんが告知することには、「シンケンジャーとは6月のVシネマでまた逢えます」と。
え? もうこの後、旧戦隊の出番といったら、1年後のVS企画だけじゃなかったっけ? ゴセイジャーVSシンケンジャーみたいな。撮影は夏頃のはずだよね?
どうやら、新しい企画シフトでも創設されたかな。電王人気の年、シフト外の映画が何本も生まれたみたいな。
まぁいずれ詳細も判るだろう。なにせ、最終回で骨のシタリがヌケヌケと逃亡していたからね。なんぼでも話は作れるだろうってことで一つ。

ああ、そうだ。ショーの〆に、「どうしてもこれやらなくちゃ気がすまねぇ」って、寿司屋が一本締めをしたわけ。舞台と観客席が一つになって。私も、最初で最後だろうけど、思わず参加。実に気分が良かった。憎い演出だったねぇ(´ー`)





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2010. 02. 07  
本田透 著 「アーサー帝戦記II 最後の魔術師(マーリン)」が、あまりにあまりに私のハートキャッチ&ど真ん中&ど貫通だったので思いのたけを綴っておくのだった。

今まで読んで来た本田きゅん♪ の小説の中で、何より一番好きだ!
正直、ほぼ怪物的な存在である少年王・アーサーの重いさだめを描いた1巻はなかなかにダークで容赦も無く、なにより実際性が希薄な感じがしてやや受け入れがたかったのだが。

この2巻は、アーサー王を支え養育してきた老魔術師(でも見かけは若い)マーリンの思想と動機と果てない想いの起源を、遥か遠いアレキサンドリアの過去からたどることから始まる。
アレキサンドリアには人類世界の叡智を結集した図書館と、教育機関があった。
そのすべてを統率していた、比類無き天才美女・ヒュパティア。
彼女の元で滅びかけたドルイド文化の後継者としての教育を受ける少年(後のマーリン)との出会い。
だが待ち受けるのは惨劇。ヒュパティアについてはWiki参照。 なお、MMORPGとかファンタジー好きならヒュパティア考案とされる「アストロラーベ」というアイテム名にちこっと反応するかもだw

そして、アーサー王伝説内ではマーリンの恋人とも描かれる女性ドルイド・ニュミエと、アーサー王伝説序盤屈指の悲劇キャラ・ベイリン、この二人の交流が実に良いのだ。

アーサー帝戦記においては、ニュミエはサクソン兵への復讐のために甲冑に身を固めた冷血の戦乙女として。
ベイリンは、サクソン兵の虐殺によって人生を破壊された後、破滅と殺戮の快楽に生きてきた野盗の頭として登場する。
諍い合い、殺し合うまでの険悪だった関係から、ほんの僅かなきっかけで何かが通い合う。
だがその直後には、容赦無い決戦が待っていた。
必勝を期して軍師マーリンが配置した布陣は如何なる結果をもたらすのか……!
生きて地獄を見、絶望しつつもなお諦めず生きてきた三者三様の凛然たる交錯はとにかく美しい。
本田氏独自の思想や信念、夢、願望、理想、そういったものが詰め込まれて炸裂しているかのようで、最初からほぼ最後まで激萌え、そして垂涎の1冊となった。実に続刊が楽しみである。

ただ、最後モルガンが登場した辺りはやや血の気は引いてしまったのだけど。
本田きゅん♪ が、どれほど女性の存在そのものを苦手としているか、も見えてしまう次第ではあったことよ。ニュミエは自分を女を捨てた男と言い張るキャラだったからこそ活写できたのかなぁ、とも思うのだった。


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2010. 02. 07  
昨日は22回目の結婚記念日。朝からプレゼント交換。私の方からはセカンドバッグとウエストポーチのセットである。
夫の人からは、フェイクパールのネックレスであった。
首が長くて、ハイネックを愛用する私なのだが、手持ちのフェイクパールネックレスはちょっと丈が短めで、いまいち手持ちの服に添わないことが多かった。
今回貰ったものは5センチほど長かったので、丁度良い感じにおさまる。夫の人に感謝。











でもさぁ
やっぱ
もうじき50としてはぁ
しかも生来のジュエリー狂
としてはぁ

いいかげん本物が欲しいんやけど


夜は近所のイタリアンレストラン「エッフェ」へ。
ここはいつ行っても美味である。特に手作りと思しきバターの味わいと言ったら殺人級である。
久しぶりにカロリーを気にせずに、バター付きパンにカルパッチョ、菜の花のソテーやゴルゴンゾーラソースのパスタなど、高脂質イタリアンを食べまくり、爽やかでしかも余韻の深い赤ワインなど呑んで、満足満足。

だがしかし! 普段ダイエットと称してなるべく脂質を控えていたりしたところに、盛大に詰め込んだのが大変に良くなかったのか、帰宅後もたれてもたれて仕方がない。うんうん唸って寝込み、目が覚めたら夜中の2時とか。うはー。


明けて7時半。ついにシンケンジャー最終回である。
ビックリの連続だった終盤を思えば、実に妥当で地味な、しかし品の良いラストだったと思う。闘い終わって、それぞれの人生(青春)に戻っていく侍たち。見送る殿。広々と淋しくなった部屋。
でも、爺は去らなかった。
「今後は殿に普通の人生のための教育を」と言う爺。
そう! そうなのよ! 料理とかさ。まさにそういうものを、今後の殿は必要とすると思うわけよ!
いやぁ~最高の爺だ。完全無欠。こうでなくっちゃね!
重圧から解放され、空を見上げて静かに微笑む殿の笑顔は、私が望んでいたような明朗なそれとは違うモノだったけど、闘いこそ終わっても、旧家の当主としての責務が終わるわけではないのだから、やっぱりこれで良いのだと思うのだった。

嗚呼、殿に、侍達に、元気いっぱいの寿司屋に、渋さ満点の爺や黒子にもう逢えないかと思うと、寂寥でいっぱいである。
2月11日には東京ドームシティに素顔ショー観に行くけどな!!ww


特筆しておきたいのは、薄皮太夫の最期のこと。
ドウコクが望む絶望と哀しみに満ちた音はもう奏でられないと言う太夫に
「んじゃ、もう終わるか」
と、散華を施すドウコク。
ドウコクの望みはなんだったのか。
哀しみに満ちた音色はなぜドウコクを鎮めることができたのか。
その音色を護るために、自らの体を剥がして与えることも躊躇せず。
その施しによって、自らの妄執に踏ん切りをつけてしまった太夫。
存在意義を失った太夫に残った可能性はもはや消滅しか無く。
ただ一言でそれを果たしてしまうドウコク。
彼女を自分の一部として取り込むことで。

正直、1年闘う戦隊の敵のボスとしては相当に物足りない、小物感に満ちた奴だったけど、この流れには感動を禁じ得ないのだった。
ドウコクったら……(´;ω;`)ウウッ
本当に、真実、まことの意味で太夫を愛していたんだねぇ……って。
何百年の永き時、人間の絶望、悲哀、業苦、そういうものだけを追求してきた人ならぬ外道の者こそに可能な、これこそがまったき愛の形だったのだろうと思うと、ハードボイルドの真髄を見た気もするのだった。
左翔太郎に見習え、とは言わないけどね。彼はハーフボイルドだからこそ良いのだもんね。



さて、新しいプリキュアも始まった。
絵柄が実に私好み、かつ息子好みでもあったので、一緒に観てみる。
だが、息子は内容そのものが受け付けなかったようだ。どれみちゃん命の彼にとって、どれみちゃんに似てるようで全然違う、というのが受け入れがたいのか、それともそもそもプリキュアコンセプトを受け付けないのか。
私は丁寧な作画やオーソドックスな演出はなかなか気に入った。
もともと、プリキュアは、絵柄がどうしても好きになれずずっと距離を置いていたのだが、今回は本当に絵が可愛いと感じるし、鑑賞してみて、キャラの性格がまた気に入った。特にお隣のえりかちゃんが良い。可愛い!

でも、玩具の在り方やファッション追求というコンセプト、そして定型化された戦闘構造はどうも好きになれない感じだ。昨夜のレストランにもいたのだが、昨今、どうみたって分不相応なオシャレ身なりに身をやつした少女、幼女を多く見かける。私はどうにもこの風潮が気に入らないのだ。
年端の行かぬ少女達に、虚飾、虚栄を煽ること。
それがどれだけ富を生み出そうが、善いことだなどとは決して思えないからだ。
まして、香水? ふざけんな、と思う。
香水なんてのは、断じて少女幼女の使って良いモノではない。
未だ成長も仕切らず、肌もデリケートで、生殖も恋愛もまだまだ早すぎる、幼い少女達が、そんなものを使うのが当たり前の世の中になるというのがどういう意味なのか。世の大人達には今一度、よっく考えて貰いたいものである。

だが、さすがに3歳児対象の玩具に、本物の香水を入れてるはずは無かろうけどね。手に取ってみないとまだ詳細も判らないのだけど。でもあのCMを観る限り、子供たちが親の香水を付けたがる流れも必至と思われるし、完全無害とはやはり言えないと思うよ。

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星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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