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2011. 12. 31  
今年最後のエントリは「ジュエルペット サンシャイン」。
見始めたのはつい最近だ。ネットで「とにかく凄い、とんでもない」という評判を目にして、興味本位で観てみたらもういっぺんでハマってしまった。
お話はどうやら懐かしのヒット映画「フラッシュダンス」のパロディ。名シーンのなぞりっぷりが丁寧過ぎたり、シナリオの生々しさに感心したり。
そしてなによりキャラクターの可愛らしさ。ただ可愛いだけじゃない。設定が奇妙で異様なのだ。マスコットキャラのジュエルペットは小動物サイズの二頭身であるにもかかわらず、普通に人間たちと対等な存在として社会で生きているらしい。どれくらい対等かというと、異種族間恋愛が当たり前に成立しているのだ。ぬいぐるみみたいなマスコット的ジュエルペットと人間がガチでラブなのだ。それがあくまでごく自然に描写されるので、脳みそがぐるーっとねじれる感覚があった。

気づけば軽く依存症にでもなったかのように毎週チェックするようになった。

作画はいつもクオリティが高い。そして演出が何気に高度だ。シナリオはかなり野放図で、毎週方向性がバラバラだったり、シュールだったり、
「いったい誰に向かって発信してるんだ!?」
と画面に向かって叫ぶくらいに徹底的にマニアックなパロディに徹していたりする。

特に今日放映の回は無茶だった。一本丸々、「イージーライダー」のパロなのだ。そりゃあもう細部までこだわって凝りまくった画面に口あんぐり、そして爆笑。どこへどう転がるかまったく読めない謎展開。
ああこれ、懐かしい。「うる星やつら」だ。それもスタジオぴえろ時代の、押井・伊藤コンビの脂がノリまくっていた頃の、あの感じだ。
そしてたまたま登場キャラが、今私が一番ご贔屓の女性声優の豊崎愛生ちゃんと沢城みゆきちゃん演じるラブラとエンジェラペア。もうこのペアの幼くて切ないくらいの高音ボイスで埋まる時間の幸せと言ったら。無上の我得。

そして、可愛さだけじゃない、実に身も蓋もない生臭い少女のエゴイズムがボロボロっとこぼれ出てきてしまうくだりが毎回あるのが、この作品の一番の価値と魅力だと思っている。



人生通して、サンリオキャラクターを愛好したことは一度も無かったのだが、ジュエルペットに逢えるならピューロランド行こうかしら、と妄言を吐くくらいにハマっている。
ただ、商品に印刷されたジュエルペットたちは妙に魅力が褪せているように感じるのだ。
やはり、動いてナンボ、アニメの中で生きていてこその存在か。

主題歌も、OPED共に良い。カラオケで練習したりしているが、流石にあの高音は出しかねる。だからと言ってキーを下げてしまうと、主題歌としての魂、「乙女心」エッセンスが台無しになってしまう。難しいもんだね。
ババア歳を考えろ自重しろ、とかいうツッコミは受け付けんぞよ。来年も、歌いたい歌、歌いたいように歌っていくもんね!

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2011. 12. 28  
アジモフ先生の歴史解説、ゴート族やフランク族、イスラム教の発生と拡張などなど読んでいて、特にビンビン来てしまったのが、メロヴィング朝における二人の女性の対抗のくだりだった。

女性が歴史に名を刻むのは珍しいことなので、この二人のエピソードはよほど当時の人々にインパクトを与えたのだろう。

その名はブルンヒルデとフレデグンド。後に物語として改変され、「ニーベルンゲンの歌」として語られ、ワーグナーのオペラにもなり、崖の上のポニョにまでその名を表す。

だがもちろん、史実は物語とは大きく異なる、ロマンもへったくれも無い、どこまでも泥まみれの凄惨な諍いだったようだ。


時は6世紀半ば。
西ゴート王国に二人の王女が居た。姉の名はガルスヴィント、妹はブルンヒルデ。
キリスト教アリウス派の教育を受け、妹は特に知性と意思力に恵まれ、すくすく育つ。

当時、西ゴートの隣国・フランク王国は4人の王子のために4つに割譲されていた。
そのうちの一つ、アウストラシアの王シギベルトのもとにブルンヒルデは嫁ぐ。
他の兄弟たちは正妻・愛妾入り乱れるルーズな婚姻をしており、隣国の教養深い姫を妃にしたシギベルトは世間の賞賛を勝ち得、鼻高々であった。

やがてシギベルトの弟、ネウストリアの王キルペリクは兄の立場が妬ましくなったのか、自分も同様の妃を得ようとし、正妻を離縁してブルンヒルデの姉ガルスヴィントを娶った。
ところがこの婚礼には問題があった。
キルペリクには特に情けをかけていた愛妾が居たのである。名はフレデグンド。元は身分も財も無い召使だったのだが、大変に麗しかったのか押し出しが強かったのか、名も無き妾の一人として済ませられない存在にまで上り詰めていたようだ。
キルペリクが正妻を離縁した時、フレデグンドは正妃の後釜には当然自分が座れるものだと思っていた。
だがやってきたのは西の大国ゴートの長女姫である。
そしてこのガルスヴィント、敬虔な宗教教育のためなのかはたまた王女の誇りのためか、夫となったキルペリクに断固とした身辺整理を迫った。
「不潔よ! 淫らよ! あのいやらしい妾たち一人残らず叩き出してくださいまし!」
と言ったかどうだか知らないが、ともかくも窮地に陥ったのはフレデグンドである。自分のものになるはずだった正妃の座、王の愛、様々な特権、総てが奪われようとしていた。
フレデグンドは唯々諾々と運命に従うような女ではなかった。あの忌々しいゴートの姫さえ居なくなればそれで良い、とばかりに暗殺者を雇ってガルスヴィントを殺してしまう。ガルスヴィントのことを女としてイマイチ好きになれなかったらしいキルペリクはその後すぐにフレデグンドを正妃に迎えたのだった。

怒り狂ったのはもう一人のゴートの姫、ブルンヒルデである。
ここに、フランク王国を引っ掻き回す女と女の闘いの火蓋が切って落とされた。二人の正妃は夫の武力を利用して争い続けた。幾年もが過ぎ、ついにシギベルトがキルペリク軍を破り、シギベルトとブルンヒルデ、その3人の息子たちはパリに意気揚々と入城した。
だがフレデグンドはまたも暗殺者を用いてシギベルトを葬り、ブルンヒルデたちを捕らえにかかる。3番目の王子キルデベルトだけをなんとか逃し、ブルンヒルデはネウストリアの虜囚となった。

シギベルトを殺し、妻子を捕らえ、これで夫の国土も倍になる、後はあの憎ったらしいゴート女を亡き者にして、このアタシがフランク随一の女王に。オホホホホ……と調子に乗っていたはずのフレデグンドの見通しに大番狂わせが生じた。
なんと息子がブルンヒルデと結婚するというのである。

息子と言っても義理の息子だ。キルペリクの最初の正妃、アウドヴェラの子息メロヴィク。なんとしてでも己が腹を痛めた息子に王位継承をさせたいフレデグンドにとってまさに目の上のたんこぶのような男。

だがメロヴィク王子の立場からしてみればフレデグンドこそ厄災そのものだった。母は離縁され、自分の立場はどこまでも弱い。暗殺という手段をためらいなく使う継母にいつ寝首を掻かれるか判らない。
敵の敵は味方。メロヴィクはブルンヒルデが監禁されているルーアンの地に向かい、ブルンヒルデを救出して求婚した。未亡人になったばかりの彼女はこれを受け、二人は手に手をとって逃亡し、司教の元で正式な婚礼を挙げたのだった。

キルペリクとフレデグンドの怒りは甚だしく、メロヴィク王子とブルンヒルデは追われ囲まれ引き裂かれ、各地を転々とした挙句にメロヴィクはついに自死を選ぶ。息子を捕らえそこねた父王は罪もない従者3名を散々に拷問した末に処刑して憂さ晴らしとしたようである。


だがブルンヒルデは逃れ切った。亡夫の兄であるブルグント王グントラムを頼り、生き残った息子キルデベルトが成長するまでアウストラシアの摂政として統治を試みる。それなりの教養と経験を積んでいた彼女は積極的に行政改革に取り組み、街道整備や教会及び要塞の建築など、辣腕を振るったようである。

キルデベルトが成人し、アウストラシアのみならずブルグントの王とも成り、ブルンヒルデの人生も安泰かと思われたが、ほどなくしてキルデベルトはあっけなく死んでしまった。
ブルンヒルデの疑いはまっしぐらにフレデグンドに向かった。暗殺という手段で政治を動かしてしまうような振る舞いは、それが事実であろうとなかろうとその後の行動を疑われ続ける。これは一生背負わねばならない穢れのようなものである。
かくしてブルンヒルデとフレデグンドの醜い争いは延々と続いた。ブルンヒルデは孫たちの摂政となって国政を操り、ネウストリアとの戦争は終わることが無かった。それはフレデグンドがついに死んでも変わらなかった。

徐々に冷酷さを増していくブルンヒルデの統治。やがて孫王にすら疎まれ追放されるが、今度は別の孫の後見に付き、やがて孫同士が血で血を洗ういがみ合いを始めてしまう。

統治と支配に取り憑かれたブルンヒルデの生き方は、孫が曾孫の代になっても変わらなかった。フランク王国は乱れ続け、国力は疲弊する一方。多くの苦難と動乱と怨嗟の中で、彼女は70歳まで生きた。当時としてはかなりの高齢である。だがついに彼女の支配も打ち倒される時が来た。曾孫たちは殺され、彼女自身は荒馬に繋がれ死ぬまで地面を引き回されて(四肢を複数の馬に引き裂かれた、とも)死んだ、と伝えられる。

ブルンヒルデに引導を渡したのはクロタール2世。
かのフレデグンドの息子であった。



この後もフランク王国は内乱による無益な削り合いを続け、王権は弱り、やがて宮宰と呼ばれる実権者のお飾りと成り果てて、メロヴィング朝は滅びていく。この地が力強く勃興するには卑しい出自ゆえに「カール(最下層、農奴、賤民の意)」と名付けられた男の活躍を待たねばならないのだった。




**********************

暗黒時代の解説本の中でもっとも楽しみだったカール大帝(シャルルマーニュ)の項に移る前にこの凄まじい女の闘争をまとめておきたかったのだった。下賎な話でしかないとも思うのだけど、ビンビンきちゃったものは仕方ない。

それにしても3人の子持ち、しかも夫が死んだばかりの中年女王に速攻で結婚を申し込むメロヴィク王子パネェ。熟女か!? 熟女好きだったのか?! はたまた宿命の熱愛か? これは当時としてもかなりのスキャンダルだったようで、政治的計算のみの行動とも受け取りがたいのだな。欲得ずくとは言え、このくだりにはやはりドラマチックを感じてしまうのだった。


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2011. 12. 26  
久しぶりに歴史本。大々々々好きなアイザック・アジモフ博士の「暗黒時代」が最寄りの図書館に届いたのだ。
毎度ながらのアジモフ節、淡々としているのに読み止められない面白さ。教科書チックなのにどうしてこんなに面白いのだろう。
大事なことや深遠なことを、易しく判りやすい言葉で伝えられる人こそが、真に賢い人なのだろうといつも思う。
私はつくづく頭が悪い。どうしてもこねくった長文になってしまう。
困ったことに、文を短くすれば良くなる、というモンでも無いんだなコレが。


暗黒時代、というタイトルだが、著述はゲルマン民族台頭から始まる。まだカエサルすら登場していない頃。
ローマ帝国がオシャカになる時代から何百年もさかのぼった所から始まるわけで、とことんの根本から始めねば歴史の解説にならない、ということなのだろう。
「風雲児たち」で、幕末を描くためには関ヶ原から始めねばならなかった、という姿勢と同じなのだと思った。

色々な事情で他国の領地に襲いかかるゲルマン民族のパワーに徐々に蝕まれるローマ。
この辺りは塩野さんの本の記憶があるので、サクサク読める。

フン族の大暴れによってゲルマンも領地を追われ、地中海世界がシッチャカメッチャカになった後あたりから、いよいよ話がややこしくなってくるのだった。

なんだかんだでハッと気づくと、ゲルマンの中のフランク族がすっかりガリアを頂戴して王朝を拓いたりなさってる。
ここでポイントになるのが、フランクの王クロヴィスが先祖代々の宗教を棄てて、カトリックに改宗したということ。
これによって、ガッチガチのカトリック揃いだったローマ人たちの心理的支援を得たこと。これがハッキリと明暗を分けた、という印象だ。
この決断の背景には、政略結婚でクロヴィスの妃となった女性が敬虔なカトリックだったことがあるのだけど、常に淡々とした記述のアジモフ氏がここで珍しく
「妃のガミガミ声を思い出したのか」
というくすぐりを挿入したりして、インパクトを出している。
不利な戦況に追い詰められたクロヴィスは、「妻の神が勝たせてくれると言うなら改宗する」と天に誓い、果たして勝利を得、その後部下数十名と共に洗礼を受けた、と。
こんな感じで彩られてしまうと、読んでて楽しい上にイメージ固定にもなる。アジモフ氏的に「ここぞ!」という辺りなのだろう。

めでたくメロヴィング朝開幕となったわけだが、クロヴィスの死後、4人もいた息子たちが争って血で血を洗う感じにたちまちなってしまい(まさに歴史のオヤクソク)、母であるカトリックの妃は我関せずとばかりに宗教活動に入れ上げて、聖人に列せられるほどであったそうな。

……というあたりで眠ーくなってしまって今日読んだのはここまで。こっから先、ますますカオス化するはず。うへぇ。
それにしても「テオドシウス」君、多すぎややこしい。
アッティラは良いよな、アッティラ君しか居ないもんな。


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2011. 12. 25  
とっても稀な絆の物語だよ。

地味で目立たない、日本の青年。
あまりに独特な心を抱えて、誰にも理解されない孤独な青年。

片や、遠い過去に生きた異国の貴族。
人生に破れ、悲嘆と渇望の果てに狂死した魂。

摩訶不思議のさだめに惹かれて、はるかな時間と因果を超えてめぐり合った二人。

友情、ってものじゃない。そんなありふれたものじゃない。
昨今よくあるBLとも違う。愛とか恋とかそんなじゃない。

他の誰にも通じない、彼らだけに通じ合う、響き合う波長。
なんの齟齬も無い。無理矢理の迎合も要らない。媚びも嫉妬も羨望も無い。
総てがしっくりと噛み合い、なめらかに沿って行く。
もちろん、お互いに知らないこともあるけど、そこに無理解は生じない。
語り合えばすぐにわかりあえる。他の誰とも分かち合えない思いも気持ちも、二人の間だけには共通なんだ。

二人共が、相手をこの上なく尊重する。理解し、敬い合う。称え合い、頭を下げ合う。
平等で対等であるけれど、礼節を忘れない。
そして、同じ夢を見る。世界中で他の誰も見ない夢を。二人だけの理想を。
それを一緒に見てくれる相手を、どちらもこよなく信頼してる。たった一人のパートナーとして。
二人して夢をやりとげようとする。
世界中が彼らを認めず、許さず、磨り潰そうと迫るけど、独りじゃ出来ないことも二人なら出来るからと、協力し合って世界と神に挑むんだ。


そんな二人は、お互いを「マスター」「旦那」と呼び合うんだよ。
こんなにも麗しい、円満な調和の関係を、私はほとんど知らないねぇ。





……っていう滅多には無い至高の絆の二人組を、石田彰ファンのJKマイミクちゃんに紹介してあげたいと思ってるのだけど、私なんも間違ってないよね?www





というわけで、Fate/Zeroといったんのお別れ。
地獄のヒキというべき中断で、とにもかくにも再開が待ち遠しい。征服王が恋しゅうござります。

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2011. 12. 24  
終わった終わった。というわけでクリスマスイブである。狙ったかのごとし。

ウテナ以上にわけわからん、意味不明、伏線ほっぽり出し、けっきょく何がどうなって、アレとかソレは一体なんだったんだ説明しろハッキリさせろ理解できないからクソ二度と観ない等々、ちゃぶ台ひっくり返してキレておられる向きもあろうかと思うけれど。
こと幾原監督に限っては、「合わなかったのなら仕方ないですね」としか言い様が無かったりする。
基本、私は不明瞭で伏線バラマキほっぽり出しのお話は大嫌いだ。
だが、幾原監督の作品は、暗喩や寓意だらけではあるけれど不明瞭だとはあまり思ったことが無いのだ。凡百のクリエイターがやったことなら激怒する曖昧も、逆に大好きになってしまう。幾原作品は、わけわからなくても、伝えたい事はハッキリしていて、迷いが無いと感じるからだ。

ただ、それを判りやすく形にしてしまうことを避けるのがスタイルなのだろうと思う。
判りやすくすることで、逆に伝わらなくなるもの、こぼれ落ちてしまうものがあまりに多い。
描きたいことや伝えたいことがあまりに多い場合、並の方法ではどうしてもやりきれないことがあるのだ。
だから幾原監督は演出に徹底的に凝る。その上で、謎と装飾を積み重ね、イメージから真意を汲んでもらおうとするのだろう。

言葉にしてしまった瞬間、崩れて失せるものがある。
目に見えた瞬間、固定されて吹き飛ばされる残滓がある。
イメージ主体で伝えること、受け取った側がそれぞれの人生の中から意を取り出して益とすることで、それらのこぼれ落ちを救済すること。
その「それら」が作り手の中で明確に指向され把握されているならば、私は不明瞭を愛せるのだ。
だが、その手腕だけを利用して己の甘えや低能の誤魔化しにする輩もたまに居るので、そういう場合は私は激怒するのだけど。


ウテナは、女の子たちへの捧げ物だったと思っている。
「こんな風に生きて欲しいです」
というお話だったのだと思っている。

ピングドラムの終盤、私はこっちのお話は男の子たちへの捧げ物になるのだろうと思った。
「そろそろそんな生き方はやめて、こうしませんか」
というお話になるのだろうと。

その予想は的中したと感じた。物語は綺麗にたたまれて見事に完結した、と感じた。何の不満も無い。
ただ私は男の子ではなく、ウテナの薔薇はもう受け取り済みであり、今回の最後は少しばかり蚊帳の外、とも言うべき一抹の寂しさも味わった。
そして、この話が伝えたかったことをどうにも受け入れられないまま「わけがわからないよ!」と踏みにじって忘れ果て、相変わらずのままでしか居られない餓鬼がいっぱいなのだろうな、と思うと暗澹たる気持ちになる。
まさに今、この世は餓鬼のすみかなのだ。餓鬼は餓鬼を増産し、奪うこと、貰うこと、得すること、そして自分の価値が上がることばかり思い暮らし、それが叶わぬ世に怒り恨み憎む。
さて、ピングドラムのリンゴはそんな世の男の子たちの心にどれほど届いてくれるだろうか。



さてここからは私なりのある受け取りであり解釈。最終回、特に面白いと感じた点。
ラストがそのまますんなり第一話の冒頭に繋がっていること。その上で主人公の部屋を見比べると、凄すぎる差異にもう笑うしかなかった。
気の狂ったような色彩感覚と、ごく常識的な範囲の簡素に収まった色合いと。
「私はずっと小さな罰を受け続けてきたよ」と語られたこと。
あのてんこ盛りの極彩色こそが、「小さな罰」の積み重ねだったのだな、と解釈した。
別に好きでも欲してもいないアレコレを、勝手な解釈で良かれ良かれと押し付けられ続けたこと。
「こういうの好きだろう? こういうの嬉しいだろう? こういうのを、あげたいんだ」
と降るように注がれ続けたこと、それを拒めなかったこと、それどころかニコニコと喜ぶさまを返さねばならなかったこと。怒る権利も嫌がる権利も無かったこと。
それが「愛」であり「正当」であり「アリガタイ」であると縛られていたから。
嫌悪も不自由もひっくるめて飲み込み続けていなかればならなかったこと。
否応なく降り注がれる愛情に窒息しかけてそれでも笑って居続けたこと。ずっと、ずっと。
それこそが罰を受け続けてきたと感じたことなのだろう、と。

そして思い出したのは、萩尾望都さんの「残酷な神が支配する」で描かれた、とあるリンゴのことだった。
独善的な母親の庇護と干渉のもとで息苦しさに死にかけていた少女が見た夢、そこに現れた魔女の姿の母親が泣きながら娘に差し出した「ママの愛で味付けした毒リンゴ」をカプっと齧るシーン。

愛の名を騙る暴虐。
餓鬼の見るロマンの正体の大抵はそんなところだ。



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2011. 12. 23  
ご贔屓シンガーの絢香ちゃんが2年ぶりに復帰するというのでミュージックステーションを観る。

が、しかし。スペシャルライブとのことで放送枠が長大。いったい彼女はどこで観られるのか? 好みでない歌ばかり流れるし、多分後半だろうと山をかけていったん離脱。

ようやっと司会が絢香ちゃんの名を呼んだのでTVの前にすっ飛び。
2曲を立て続けに歌う絢香ちゃん。
むむ、さすがにちょっと声が苦しそう。それでも、ここぞというサビの響かせ具合は見事な深み。
彼女の声は低音の響きがたぐいまれなので、そこをもっと活かすと良いのにな、などと思いつつ。

音楽番組を観るのは久しぶりで、ざーっと他の若い女性の歌い方も観察していたのだが、やたらと高音を釣り上げるように歌うのは今の流行りかなにかなのかな。それがどれも対して綺麗でも響いてもいない、ただただ張り上げてインパクトばかり狙っているようで、まったく感心しかねる。
確かに高音は注意を惹く作用と、気分を高揚させる作用があるので、売るためのつかみには向いている。
だからって、誰も彼もそれをやっちゃぁなぁ。どいつもこいつも平板。つまらない、まっことつまらないよ。
誰も彼も容姿端麗でなければならない、と思い込んでいるかのような昨今のタレント売りの傾向と同じで、こういうところも現代日本の宿痾みたいなものだと思う。

絢香ちゃんはこういう馬鹿げたトレンドに巻き込まれて欲しくないなぁ。歌声ってのは、トーンより響きが大事なのだから。もちろん彼女はそんなことは百も承知だとは思うけど。

それにしても、タモさんとの会話で24歳って言うのを聞いて、あらためてビックリする。その若さでその風格ですか。まとってる空気からして違うね。大御所とまでは言わないけれど、御所くらいのムードはすでにある。

そして、詩が良かった。良いこと書くなぁと素直に感動できる歌。
来年はアルバムもツアーもあるそうで、身体に気をつけて頑張って欲しい。

彼女のような人にとって歌うことは生きること。
歌えないことこそ不幸。
大勢の人に聴いてもらうことこそが糧。

うまく歯車が回りさえすれば、綺麗に回路が全開になってもっともっと声が良く出るようになると思う。紅白も楽しみです。



ファンクラブも入ってあげたいけれど、いかんせん、ヒロ君の方に立ち上げ直後に脊髄反射で入っちゃって、貧乏暮らしではさすがに二人分は払えんわー(´・ω・`)

会費、ちょっと高い気がしたけど、こちらはこちらで待望の「文章」が会員限定で読めるってんで、抑えが効かなかったのよねヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ

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2011. 12. 22  
2011年はムチャクチャな年だった。
50年足らずしか生きていないので、これほど凶事に満ちた年を知らない。
で、今日はそのことについては書かない。気軽に書けることではない、と思うので。

そういう社会的、世間的なこととは離れた、極私的な趣味の範囲の今年のこと。
TVアニメを昨秋からそれなりに見始めた。何年も離れていた趣味だったけれど、やはり色々と面白い。観ていなかった期間にどれほど多くの名作傑作を見逃してきたかは計り知れないのだけど、それでも今年という一年に視聴をしていて良かった、と心から思う。

その理由の一つとして「虚淵玄」という脚本家を知ったことが挙げられる。
魔法少女まどか☆マギカの衝撃は凄まじかった。天地を鮮やかにひっくり返してみせる豪腕。構造の緩みを見せない繊細な周到さ。

私は、こういうタイプの書き手を何人も知っている。ずっと昔から知っている。そして、それが大好きだ。
そういう人たちはもっぱら「SF」というフィールドに群がって生息しておられた。
TVアニメとして高水準であるのも勿論なのだが、とにかくも物語そのものがSFの真髄的な魂を明確にあらわしていて、SF好きの私にとってはたまらなくありがたかった。
果たして、今年度のSF大賞の候補作品ともなっている。受賞は叶わなかったが、来年夏の星雲賞メディア部門受賞はほぼ確実なのではないだろうか、と予想する。


そして今年最後のシーズン、9月始まりのTVアニメ群の中に燦然ときらめく「Fate/Zero」。
まぁこれがまためっぽう面白い。これは虚淵氏は直接の脚本は書いておられないが、原作としての小説を担当されており、脚本会議にも欠かさず参加してエッセンス提供をなさっていたようである。

これもまどか☆マギカ同様、無理や無駄を排除した状況の流れの構築の上手さと、独特の思想と教養に裏付けられた重厚なセリフのやりとりがとてもエキサイティングなのである。アニメらしからぬ、アクション無用の会話劇が多いのだが、一見地味に見えるドラマの中に潜む示唆や哲学、緊張感溢れる対話バトルの凄みなどは、他の作品ではなかなかお目にかかれないものだと思う。

「王」を名乗るキャラ3名による鼎談、そこでの思想のぶつかり合いの壮絶さは簡単に要約できるものでもないので、是非実際に観てもらいたいエピソードとなっている。
通常の常識、良識、一般的な当然として語られそうな、愛や正義や救済、そして王道という概念が完膚なきまでに木っ端微塵にされるさま。ゾクゾクした。固定観念をひっくり返される快感。私的至高の一品だった。

そんな訳で、私にとってこの一年は「虚淵に始まり虚淵に終わる」という年だった、という気がしているのだ。
来年以降のますますの御活躍、大いに期待してます。


今年はこの他に「輪るピングドラム」という超弩級異色作もあり、これまた語り甲斐のありすぎる一本。
こちらはいよいよ完結が迫っているので、それを見終えてからスッキリ総括できると良いなと思うのだった。

大丈夫。イクニ監督はきっと必ず見事なオチをつけるはず! 
信じてる。
これは、ウテナの薔薇を受け取った者としての絶大な信頼であります。


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2011. 12. 21  
「ロード・オブ・ザ・リング」(指輪物語)の前日譚にあたる「ホビットの冒険」の映画の予告キタぞー!

美しい。いやが上にも美しい。
ロード・オブ・ザ・リング三部作から年月が過ぎた。映像技術も進化している。なんという透明感。光の演出が凄い。クッキリとクリアーで、かつ詳細に作りこまれたもろもろ。
大変に丁寧に作られている気がする。それなりの映像クオリティを期待して良いだろう。


だがしかし。
困ったことに、これほど美しく作りこまれているというのに、なぜか私には違和感が湧くのだった。
綺麗過ぎる。隅から隅まで綺麗過ぎる。
それはどうにも、私の内にある「指輪物語」の世界とは違う、と感じてしまってしょうがないのだ。
映像があることはありがたい。こうして、原作のイメージをとても大切にして作られていることがはっきりしているムービーを観ると、それだけで胸に迫るものがある。涙が出そうになるほど、こみ上げる何かがある。

だが、私はここで自分に問うてしまうのだ。
「その感動は、何に対する感動なのかね?」と。

そして答えはすぐに出る。
「映像をきっかけにして、かつて自分の心に紡いだ原作のイメージを思い出して感動しているのだ」

目の前にあるのは他人の作った映像。私が感動しているのは、私の脳内にだけある私独りだけのイメージ。
それはどちらも原作小説を基にしているのだが、それでもそれらを一緒くたにしてはならない。別物だ。
キッチリ分けて判断するべきなのだ、と。


私の中の「指輪」の世界は、この予告編のようにどこまでも綺麗なものでは無いのだ。
もっと田舎臭く、もっと薄汚く、肥料や屎尿や埃の匂いが干し草や花の匂いと入り混じり、道端は雑然としていてまだらに雑草に覆われ、轍は深く荒く粉っぽい。家屋の内も外も、綺麗なところとそうでないところがある。
茂みはジメジメと鬱陶しく、ドワーフの住処はさらに暗く異臭に満ちるだろう。魔の領域はさらにいやらしい穢れの地だろう。
そんなリアルな生活の汚れと、容赦ない大自然の驚異への恐れがあってこそ、エルフ達の森の清澄な美と光が映えるのである。この世のものとも思えぬほどの感動と安らぎと憧れの地になるのである。

どこもかしこも丁寧な輝きと美で統一されている「ホビットの冒険」のスチルは、その丁寧さ、作り込みゆえに、かえって実存性を損ねている気がしてしまった。かえって平板で、作り物臭い気がしてしまった。贅沢で不当なぼやきだとは判っているけれども。

この不当っぷり、改めて自分がどれほど激しく深く独善的に、原作のイメージに耽溺し固執しているかを思い知った。どうやっても私は、指輪の世界の映像化やその他のコンテンツに公正な評価なぞくだせないだろう。この作品に関する限り、初めてそれを読んだ小娘のころの気持ちから一歩も成長していない、という気がする。しかもそんな幼稚さや執着を、自分自身で「よしよしイーコイーコ、それはそのままで善いのだよ」と庇って甘やかして助長までしているきらいがある。もう業病レベルだ。下手すると死ぬまで治らない。

なので、観るだろうけど感想は外に出さずにおくかもしれない。あるいは鬼のように語るかもしれない。どっちにしても私にこの方面の話は振らないほうが皆々様のためかもしれない。



いろいろ不満はあったけれども、大昔の指輪のアニメーション映画、そのメインテーマ曲だけは未だに大好きだったりする。

http://www.youtube.com/watch?v=wwcd0vYq3N0

指輪物語は、実写よりも純然たるアニメーション、あるいはフルCGの方が合うと思う。ファンタジーを作る際の「実写の不利性」はもっと問われて良いのではないのかな。

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2011. 12. 19  
私の実家は基本は仏教徒。基本、といわねばならないのは、日本人にありがちな適当アイマイ多神教主義により、仏壇も神棚もあったからだ。父は日課としてそれらを拝み倒していた。
西本願寺派だったらしいので、仏間ではひたすらにお念仏。
兄が急死してからは、100日間は毎日、それ以後は毎月家族揃って読経させられた。
正信念仏偈、というものだったらしい。

困ったことに、何百回読まされても私には意味が判らなかったのだった。
母に訊いてみると
「意味はわからんけども、なんかありがたい事が書いてある感じやからわかりたいとは思うけどな」

大体において仏教徒とされている日本人の大半がこんなものだろうとは思う。私の場合、正信念仏偈はまだ手元にテキストがあり、漢字で記されているのでボンヤリとしたイメージは伝わってきただけまだマシなほうだろう。

問題は正信念仏偈以外のお経を聴く時だった。音声だけでは本当になんのことやら判らない。判らないものを聴くことに意味があるとも思えなかった。


実家を離れ上京した後、友人達と般若心経の話になった。
友人曰く
「この世の究極の真理、絶対的な真理が書いてあるので、唱えるだけで善いって。書いたものを持ってるだけで魔除けなんだって」

はぁ? 意味も判らないのにホぎゃホぎゃ言うだけで効果があるとか、そりゃどういう理屈なのかね。
究極絶対真理だからって、書いてある紙切れ持ってるだけで襲われないとか祟られないとか言われても、いやいやそんなのを信じるわけにもいきませんなぁ。
な ぜ そうなのか、が判らん限り。


今となっては、「訳もわからないのに効果がある」ことの意味は判る気がする。
判ろうが判るまいがどうでも良いのだ。
人間は、それがそうと、信じられさえすればそれで良いのだ。
ありがたいのだと。強力なのだと。究極で絶対でそれだけで魔と悪と不安を払う力があるのだと、信じきることそのものに意味があるのだと、今なら理解できる。
さらに言うなら、むしろ「よくわからん」方が好都合なのだ、と。
判ってしまうと却って効力が落ちる場合もある。よく判らない方が信じる心を集めやすいのだ。
信じる、というのはロマンだからだ。明確になってしまったらロマンは事実に変化して、夢の器の機能を喪う。
考えないこと。理解しないこと。判ろうと突き詰めないこと。
ただひたぶるに信じること。
それこそが人間にとっての大いなる力の源足りえるのだと。

お経の意味など、問わないほうがおおむねは平穏なのだろうとすら思う。

とは言え、般若心経の退魔性について論じた時以来、その内容には興味はあった。
だが熱心に勉強するほどでもなかったので、ぼやーっと解説を眺めた程度。結局、
「なんとなく深遠ぽいけどよーわからん」
という辺りで済ませてきた。


だが、つい先日こういうページを見つけて驚愕。

「超スゲェ楽になれる方法を知りたいか?」

新訳般若心経と呼ばれているらしい。
びっくりするほど明確で平易だ。この訳には真心や誠意が感じられる。素晴らしい。そして実にクールだ。知的でカッコいい、ということだ。

わけわからないままアリガタイものであったお経が、カジュアルで実用性のある言葉になった。
信心による効力は減ったかも知れないが(魔除けって感じはしないね)、例えば私のように信心そのものに不信を抱くひねくれ者にとっては、こういう明晰さこそが必要なのだと思う。

マジで、誰か才能のある人がラップにでもして歌いまくれば良いのに。
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2011. 12. 16  
立川談志氏の落語は聞いたことが無かった。
ドケチの私は図書館で借りられる範囲のソフトでしか落語に触れなかったからだ。(寄席もほんの2、3回しか行ったことがない)
なので、いったいどんな噺をなさるのかまったく知らなかった。
談志氏が亡くなられて、いろんな人の談話をたくさんラジオで聞いた。
その中で最も印象深かったのは、サンキュータツオちゃんの
「落語は業の肯定である」
という趣旨の談話だった。

例えば講談などの内容に出てくるのは
「業の克服」
であることが多い。
ダメだったり弱かったり幼かったりして、問題を抱えた者が、努力などで変わってゆくこと。
人間は弱点や問題を当たり前に抱えているが、それを抑えたり無くしたり、闘って勝ったりすることで変わってゆくこと。
それが「物語」。そういうものが多く求められる、ということ。

けど、落語は違う。落語は人間の弱さ、ダメさ、愚かさ、混乱、そういったものを否定しない。それは人間の業であり、克服するのではなく、業を肯定するのが落語である。

それが談志師匠の定義だった、ということらしい。

目からウロコが落ちた。
私は落語がけっこう好きなつもりだった。だが、聞いていてしばしば、とてつもなくイライラしたり不快になったりすることも多いのだった。なので、あまり落語にどっぷりハマらなかった。好きな噺家はごく僅か。その中でも、好きな噺はさらに少ないのだった。
私は落語の本質に苛立っていたのかも知れない、と初めて思った。
それはすなわち、人間の本質に苛立たずには居られない私の生き様の反映。
私はごく単調に「業は克服されなければならない」という信念を抱えて生きてきたのだなぁ、と気付かされた。物語も、成長・克服・解決が織り込まれていないと感心できない。むしろ、そういうものを描くために、「物語」というものは存在するのだし、そうあるべきだ、とまで思っていたようだ。
今思えばなんと偏った、一本調子の思想だろうか。そんな杓子定規を自分の中に抱え込んでいたら、どんどん不自由が増していくことにしかならないだろう。

そうでなくても老化で身体の自由はどんどん消えてゆくのだ。
心の自由さくらいはもっておかないと、人生が詰んじまう。

業の肯定。
この言葉を念頭に、談志氏の落語を今度探してみよう。
ライブの魅力には遠く及ばないらしいけど。

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2011. 12. 15  
さてgdgdといえばやはり「gdgd妖精s」(ぐだぐだふぇありーず)。

最初観たときは、まず口あんぐり。なにせチープなのだ。やっすいポリゴン。ほとんど切り替わらない背景。二頭身のいかにも適当なデザインの少女たちが文字通りgdgd(ぐだぐだ)とダベったり遊んだりしてるだけ。思わず「なんじゃこりゃー!」と海原雄山と化してちゃぶ台返しするところだったのだが。

「なんだろう……なんか切り捨てられない魅力がある気がする……」

なんだかんだで最後まで観てしまい、クレジットが流れ始めた所で評価をひっくり返さざるを得なかった。あまりといえばあまりにも、スタッフロールが薄いのだ。TV放映している番組とは思えないほどに、関わっている人の数が少ない。異様なくらいだった。これがどういうことかというと、費用対効果が高いのは勿論、制作現場の小回りが効く、ということを意味する。

予算が少ない、スタッフも少ない、そういう厳しい現場の中で何かを作ろうとしたら、どこかで先鋭化して狙いを絞り込むしかない。

gdgd妖精のスタッフが狙った先は、「脚本」と「表情」だったのだ。正確には、脚本というより展開というべきなのだが。確かに良く練られた周到なホンもある。だがそれだけではなく、声優の自然な反応ややりとりなどを生かした形で作画を後で付けるコーナーもある。これはとても画期的なことだ。普通、アニメの声はきちんと決まった構成と作画の「映像」が先にあって、それに合わせて声優が演技をつけている。この順序を逆にすることは、アニメの制作の常識的な流れの中ではとても困難なことだ。
が、安い代わりに素早く絵が作れるCGソフトと、小回りの効く小さな制作現場ならではの有利性が、逆転を可能にした。発想の勝利だと思う。

一見、荒っぽく大雑把なつくりの妖精たちの表情は、ビックリするほど豊かで、生彩に満ちている。大胆でくっきりしている。ポリゴンが荒いのでいかにもな漫符的変化になるのだが、それが実に良いのだ。タイミングよく的確に切り替わる表情が、この作品のなによりの魅力だ。

アニメーションというのは不思議なもので、キャラの顔を美麗に詳細に書きこめば書きこむほど、何故か冷たい印象になっていく。生彩を喪い、変化を喪い、硬質な美に特化してゆきがちだ。それは、容姿の美の本質が均等性にあるからだ。美を突き詰めていけば、どこをとっても平均的な、バランスの完璧な、数学的な幾何学的な、数値的な整然に近づいていくのだ。そこに歪みや変動や流動性が入り込む余地は無くなる。永遠を思わせるような安定。変化の乏しい確実さのようなもの、それが美の目指すところだ。当然の代償として、美は生命力を喪う。生命とは、すなわち変化のことだからだ。生き生きしている、というのはめまぐるしく変わりゆく、ということなのだ。美を追うほどに、キャラが硬質な冷たさを備えていくのは仕方のないことなのだ。

さて、人間は人間に美ばかりを求めたりするだろうか? 

人間は他人の何を好むのか、ということを考えた場合、最も必要とされるのは実は生き生きとした共感だったりする。
相手が何を考えているか、何を思うのか、何を感じているか。それが手に取るように判った気がするとき、人間は安心を覚える。ホッとする。そして安心は人間にとってもっとも重要な快楽でもある。
だから、表情豊かな人間は好かれ愛される。感情表現が明確なほど信頼される。親近感、好意、愛着。それらを醸しだすのは何を差し置いてもまず、共感なのだ。

gdgd妖精のスタッフは、この大原則が判っているのだと思う。安かろうが荒かろうが、とにかく大胆に表情を描く。共感による笑いを獲得すべく脚本構成を練る。そしてフルCGである利点を生かした、派手なカメラワークで意表も突いてくる。結果としてこのアニメ、実に愛らしい佳品となった。おそらく商業的にもそこそこの勝利を収めることになるだろう。実に周到でゲリラ的な戦略が作品の裏にはあったのだろうと思われる。そしてそういうのを、私はとてもカッコよいと思うのだった。

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2011. 12. 14  
昔からスケジュールがキライだった。夏休みの計画なんか立てて守ったことも無いし、他者の都合に合わせて予定通り動くことには多大なストレスがつきまとった。
やるべきこと、やりたいことはいつも曖昧にごっちゃになって、なんとなく感覚で行動を決めていた。
それでおおむねはやり過ごせたし、大した問題も無いと思っていた。

だが最近はもうそれでは済まなくなってきた。カンで行動を選び取れていたのは、「TODO」すなわちやるべき事の整理が脳内で出来ていたからであり、それを記憶出来ていたからだった。
今ではもう記憶が出来ない。整理も出来ない。脳内の希望もTODOもすべてがただのカオスになった。
やりたいこと、やるべきこと、なにもかも思いつかなくなり、ぼーっと時間が過ぎてゆく。
そんなザマでも生きて行けるのだからなんと幸せな恵まれた立場だろう、ということでもあるのだが。

さすがにヤバい、と焦りを覚えるようになってきた。このままでは還暦を迎えるより遥かに早く、要介護の痴呆になってしまいかねない、と。

そんなわけで、毎日ノートを書くようにした。
最初は一日数行、その日の行動を箇条書きする。だんだん書く量を増やしていく。行動だけではなくて、思いつきや感想を付け足してゆく。
これを繰り返していくうちに、昔はあんなに嫌っていた「スケジュール」の概念が無理なく受け入れられるようになっていった。
そしてやっと、TODOを並べて管理出来るようになった気がする。あんなにメモ嫌いで、手帳嫌いで、「TODO? なにそれおいしいの?」とガチで言ってた私が、iPhoneのリマインダーをせっせといじるようになった。

勿論、未だにやっぱりなにもかも面倒くさくなり、メモもノートもTODOもほっぽり投げてgdgdイジイジとうずくまって過ぎる日もあるのだけど、そういう風になった後は必ず大変に嫌な気分になる。
なんて時間を無駄にしたのだろうと。

それにしても、ノートを手書きしていてストレスになるのが、持ち前の「地獄の悪筆」と書き取り能力の無さだ。
20代頭あたりにワープロに出会ってしまい、「これさえあれば私でも文がスラスラ書ける!」とばかりに飛びついて以来、字が汚かろうが書けなかろうが、ほとんど気にせず生きてきた。
結果、ノートを書いても、平仮名とカタカナばかりの、しかも自分ですら判読不能のムチャクチャさ。
iPhoneの漢字アプリでチェックしてみると、小学校高学年で習う漢字すら書けない始末。中学校の漢字だと、20点とか0点とか、そりゃもう悲惨な結果になってしまった。
あまりに戦慄したので、毎日「手習い」と称してせっせと練習に励んでいる。歳なので、成果はあまり上がらないのだけど。つくづく、文明ってものが人間をどれだけダメにするか、という一例だと思う。

若いころのように素早く頭は働かない。身体もどんどん動かなくなる。たとえ寿命が100まであるとしても、基本能力が低下しきってしまっては、時間は有って無きが如しだろう。ぼーっとしがちになったとはいえ、いや、だからこそ、時間を無駄にしては勿体無いばかりなのだ、と最近思う。



こういうページを見つけた。一日三分割、というストレスの減らし方、だそうな。

考える時間。
行動の時間。
怠ける時間。

何事もすぐにカオスになりがちな昨今の脳内。こういう分類は有効だろうな。

思考がぐるぐるし始めてgdgdイジイジまっしぐらになりかけたら、「今は思い悩む時間じゃない」と念じるようにしようと思う。

そもそも「考える」と「思い悩む」はまったくの別物で、これをこそ分けるべきなのだろうけどね。

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2011. 12. 11  
Fate/Zeroで、イスカンダルがブーケファラスを抱きしめるシーンにグッと来ているのであった。それ以外にも面白過ぎる問答回だったけど、今日書きたいのはアニメの話ではないのだ。
征服王の偉大なお説教の前には塵より軽薄で無意味な日常のヒトコマでしかないのだけど。

つい先日。通りすがったとある軒下。古びたPCモニターが置いてあり、差し上げますと張り紙がしてある。電源は入るが点灯しない云々と。

そんな時代遅れのCRTモニタ、しかも故障しているものを誰が持っていくかねぇ、と通り過ぎて忘れるところだったのだが。
フッと何かを感じて振り返る。あれ? あーれれ? なにやら見覚えのある形状。ま、まさかあれは!?
近づいてマジマジと見る。間違いない。これは、私の使っていたモニタじゃないか。メーカー、型番共に同じ。なによりも、毎日毎日凝視し、時には埃を払い、それでも落とせないままこびりついた煤け具合と移動の際に付けてしまった小擦り傷の記憶との一致。

FFXIをやるために初めて購入したPCと一緒に買ったモニタ。まるまる8年、毎日酷使し、今年の春にとうとう処分した、あのモニタだ。おお愛機よ、何故ここに? 確かにお前を手放した時、まだ壊れてなんぞいなかった。まだまだ使える状態だった。それを捨ててしまったのは、震災と原発事故のショックで大幅節電を始めたからだった。

で、だ。

私はモニタを回収業者に引き取ってもらったのだ。勿論、タダじゃない。回収代金は随分と高くついた。だが適正な処分のために支払いが生じるのは仕方ない、と納得したからこそ支払ったはずなのだけども。
そして、そうして処分を委ねた以上、その後の処遇に不満や文句をいう筋合いでは無いことは判っているけれども。

処分のために金を払ったモニタ。そのモニタが何故かヨソの軒先に鎮座している。不用品のレッテルを貼られて。
私が処分を依頼した回収業者は、私から金を取り、その後、何らかの形で他の誰かからも金を取り、このモニタの処分の責任をも含めて譲渡した、ということになるのか?

そして今モニタは完全に壊れ、その処分をまた他の誰かに委ねられようとしている。
いったいこれはどういうことなのか。
私は一体なんのために「処分料」を支払ったのか。
こんな始末を見せつけられるためだったのか。
釈然としない。

「金を払って不要な存在を消したのでしょう? ならそこで契約は完了。何の問題があるんです? 確かに【処分】は成されたのだから。貴女の視界と生活圏から、この邪魔臭い機械の存在は消えたでしょう? その先の取扱についてまで口を出す権利はないはずですよ?」

そりゃそうだろう。何も間違ってないかも知れない。だからといって納得は出来ないのだ。本来一度で済むはずの「処分手数料」が重ねて発生する事態になっているじゃないか。
それはおかしいことではないのか? 

私からも金を取り(くどいようだが高額だ)、他の誰かからも金を取り、誰かがその金を自分のものにし、そして私のかつての愛機は行き場を無くして宙に浮いている。このモニタは、この後何度「処分料」を発生させることになるのだろうね。


些細なことに過ぎない。だがこういう類の些細が積み重なってどうにもならない淀みを作っている気がする。
ぜったい、とまでは言わないけれど、

「こんなのやっぱりおかしいよ」



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2011. 12. 04  
水樹奈々ちゃんの東京ドームライブ「NANA MIZUKI LIVE CASTLE 2011」に行ってきた。ファンクラブ会員のマイミク氏がまとめて取ってくれたチケットの席はアリーナではないものの、なかなかの好ポジション。マイミク氏たちは、貧乏ゆえに一本しかルミカを買って行かなかった私に気前よく大閃光ルミカを何本も分けてくれた。深謝、深謝。

そしてさすがは東京ドーム。広い! さいたまアリーナをはるかに超えるスペース感に圧倒される。野球観戦以外で来たことが無かったので、これほどの大きな会場でのライブがどういうものになるのか、想像もつかない。

客席数は思ったより少ないようだ。なにせステージが大きい。そしてアリーナ席とスタジアム席との間に、かなり大きく空間が馬蹄状にとってある。

この空間の意味は開演後ほどなく判った。
何曲か歌った後、ドーム内に巨大な気球が出現した。ゴンドラに乗って歌いながら奈々ちゃん登場。さすがに目を疑った。ドームとは言え、閉鎖空間にぽっかり浮かぶ気球。シュールな光景だった。釣ったり支えたりしたまがい物ではなく、本物だというのが独特のゆらぎで判る。そして、客席を巡るように馬蹄状の空間をしずしずと漂って行くのだ。
ドームの二階席はかなりの高さだ。ステージはとても遠い。そこにいる演者は豆粒より小さくしか見えない。
だが、ドーム天井すれすれまで揚がった気球のゴンドラは、おそらくかつて無いほどに、二階席の観客たちにスターを近づけた。凄いサービス精神。一事が万事こんな調子で、とにかく奈々ライブは観客との一体感のために多大なリソースを割くのがポリシーのようである。

この後も、ドームならでは大掛かりな演出の連続。あまりのゴージャスさに、果たして黒字が出るのだろうかなどと本気で心配してしまった。

なおこのライブの模様は、来る2012年1月21日、NHK総合で放映されることがライブ中に発表された。凄いなぁ、総合だよ総合。日本全国津々浦々で見れちゃいますぞ。

他にも、CSフジでのドラマ「スイッチガール」の主題歌に決定した、という発表も。調べてみたらこのドラマ、仮面ライダーWこと桐山漣君が出るじゃん! ああでもCSか……ウチじゃ観られないぽい(´・ω・`)

肝心の楽曲は、大舞台ということを意識したのかアグレッシブな曲調が中心。終始、歌い踊り駆け回り、まるでアスリートのような激しいライブだった。歌唱力だけでも絶大なのに、あそこまでフィジカルパワーも発揮してしまうとは、なんという破格の活力だろう。

私が彼女をとても気に入ってる理由の一つとして、肉体的脆弱を感じさせない力強いボディラインが挙げられる。
平たく言うと、やや御太め。正直、あまり衣装が似合わないなぁと感じるケースもある。だがそれが何だというのか。彼女は生粋のシンガーだ。昨今のダイエット女子にありがちなカトンボみたいなヒョロヒョロ型でまともな歌が歌えるものか。

これは歌手を目指す人全員に言いたい。君がやりたいのはアイドルなのかね、それともシンガーなのかね。ちやほやキャーキャー言われて金を稼げればそれで良いというなら貧相な身体で貧相な歌を歌い続けていれば良かろうよ、だが、歌ってものはそんな甘いものでは無いのだよ、と。ショーアップというのは容易いものでは無いのだよ、と。

それはさておき、とにかくパワフルなライブだった。惜しむらくは、音響にややクリティカルさを欠いたこと。やはり、ハコとしてはいささか無理のある場なのかもしれない。
個人的には、パワーに任せないじっくりしっとり聴かせる歌がもっと欲しかった気はする。パワーシンガーではあるけれど、彼女の能力はそれだけじゃないはずだからだ。震災直後のニコ生で歌った深愛や、たまアリで歌ったアルビレオのような歌にこそ真髄があるのだと私は思っている。3度目の紅白、何を歌うのかな。楽しみだ。歌手としての箔付けはもう充分あると思うので、良いポジションに期待する。


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2011. 12. 02  
美形のお兄さんは好きですか。

愚問ね。美しいとは良いことよ。


アニメで「美形」を初めて意識したのは荒木伸吾氏のキャラを見た時なのだろうと思う。
ハンサムでも美男でもなく、美形。
そこには耽美の魂が入っていなければならない。
デュークフリードは、兜甲児や剣鉄也とはまったく違う趣のキャラだった。王子であり紳士であり、という性格設定以上に、とにかく容姿が根本から違う。そこにあったのは美そのものだったと思う。

高校生のころ、オタクの友人が夢中になっていた「ダンガードA」。私はまったく観ていなかったのだけど友人があまりにヒートするので(どれくらいヒートするかというと役所から婚姻届をもらってきてそこに萌えキャラの名前と自分の名前を書いて悦に入るってぇくらいのもんで)どれどれとアニメ誌を見てみたら、ビリビリ震えるような美形キャラがドバーンと迫ってきた。ハーケンである。
観ていないのでダンガードAがどういうアニメなのかは一切知らない。
それでも今に至るも「ハーケン様」の超美麗イメージと共に記憶に残るタイトルになってしまうほど、そのデザインはインパクトのあるものだった。

氏のwikiを貼っておくので、お仕事を確認して頂きたい。


姫野美智さんと組むようになられてからのお仕事がやはり一般的だろうか。ベルばらや聖闘士星矢。ベルばらといえば出崎統監督も逝ってしまわれたのだった。ああいう耽美性は昨今のアニメからは減っているようにも思う。正当な後継は幾原邦彦氏の作品かも知れない。
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2011. 12. 01  
「境界線上のホライゾン」を毎週熱心に観ている。

これは、かなり人を選ぶ類のアニメだと思う。なにせ難解なのだ。

特に初回、前半はかなり私にはキツかった。設定とキャラの羅列。この世界はこういうもので出来ています、こんなにアイディアが詰まってます、こんなに華やかな美少女たちがたくさん居ます、こんなに派手な戦闘能力をもってます、と。
いきなりの百花繚乱に、思わずゲロゲロゲーであった。私は設定なんか見たくもない。そんなのは「こんなに見事な牛を用意しました」と、振る舞いの食卓に生肉の固まりを並べてみせるような行為に似ている。
それに、その設定の数々、特にキャラに関する描写があまりにもありふれた、稚拙な妄想の権化に見えたのだ。現実から逃避したい中学生がノートに書き連ねてしまう「私の考えた最強にして華麗な理想の私」のような。

そしてそれは、ロールプレイングゲームで遊ぶためのアバター作りにも酷似していた。
なにせ妄想の世界で遊ぶためのキャラ、アバターであるからと、都合の良い理想ばかりを並べ立てた、美麗であったり雄渾であったり超越的であったり摩訶不思議であったりする容姿と性格と能力と境遇と、少しでも他人より秀でたいという願いから付け加えられる異様な特徴の乱舞と。
だが所詮は幼稚な妄想の産物。現実的な思索や考慮や教養などの裏付けの乏しいそれらの夢想は、「個性的でありたい」という願いとはまったくの裏腹に、どんぐりの背比べのようなありがち設定の山を築くばかりだったりするのだ。なんと皮肉なことだろうか。

ああここにも、爛熟しきった妄想世界の澱が並べ立てられるのみなのか、と絶望的な気分になった頃。
奇妙な少年が出現した。どうやら、主人公であるらしい。
タレ目。のべーっとしたトーク。人をくったような軽さ。体型は貧弱。エロに青春を掛けていることをまったく隠さない厚顔無恥。セクハラの末にぶっ飛ばされ、天空高く舞い上がり校舎の壁に叩きつけられるさま。(福山潤君、またしてもそーゆー役ですかw)

このふざけた少年・葵トーリの登場によって私の見る目が一転した。
彼がそこにいるだけで、世界の空気が変る。自由な風が吹き抜けるようなムードになる。ありふれた風景が特別なものになる。
これこそは王者のカリスマ。人心を集め、導き、動かすに足る天の器。
王者は、自身が強くある必要は無い。特別に麗しい必要も無い。大切なのは、どれほど多くの信頼を集められるか、という一点である。人を惹きつけ、協力させる力。そして取りまとめる力。
実行力は、集まってきた周囲のそれぞれが持っていれば良い事なのだ。
一見地味で、頼りなげにも見える中肉中背の少年が漂わせているカリスマのオーラにとにかく驚いた。
そして、高度な演出力こそが、そういう画面を成立させていることに遅まきながら気づく。

監督は、小野学氏。
なにも特別なことの起きない少女たちの平凡な日常を、まるで宝石のように美しい時間として描いてみせた「Aチャンネル」の監督だった。
これはなかなかにただならぬ作品になるぞ、と判断して、熱心に観るようなった。

何話かは、とにかくわけかが判らないまま進む。話も設定も複雑過ぎるのだ。
だが、わけがわからないにも関わらず、心地よく観られる。滅多にはないことだと思う。
そうこうするうちに事態が大きく動き出し、この世界の有り様や、どのような話になるのか、が大きくじわりと浮かび上がってきた。なんとも壮大で知的な物語だ。派手な戦闘もあるが、どこまでも地味で渋い交渉対決もある。
これは相当に原作の小説の内容も凄いものであろうし、それをここまで噛み砕いて観やすい映像にしてみせているスタッフの力量もかなりのものだ。

普通、ここまで原作のスケールが壮大で設定過多であると、大抵の制作陣では扱いかねて何かが崩れてしまうものだ。およそ判りやすい構成にねじ曲げてみたり、キャラの見かけに頼ってみたり、思いっきり原作を踏みにじってまったくの別物にしてしまったり、逆に原作通りにし過ぎたあまりにアニメとしての魅力を喪失してしまったり。
そうやって良質の原作をズタズタにした上にアニメとしても駄作になってしまうケースを、私は嫌になるほど見てきた。
だからこそ、今この稀有な映像化を果たした「境界線上のホライゾン」をとても貴重な愛おしいものと思う。
いつのまにかワンクールも終盤だ。次に繋がる良い結果になるよう願っている。


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2011. 12. 01  
いよいよ師走。急激に冷え込んだ雨の日。

冬は暖房その他にエネルギーが大きく消費される季節でもあり、今日を境に節電のお願いが発せられている

さて、昨年比電力削減5割を達成(最大値6割5分)している我が家としては、例年より一層防寒対策しなければならない。なにせ電気代半減ですよ!? でっかいですよ?! みなさん、いま払っている電気代が半分戻ってくるとしたら、何に使えますか? 何が買えますか? クリスマスプレゼントがゴージャスになりはしませんかね?

とは言え、浮いた電気代の何年か分を夫婦揃って一気にアップルとソフバンに貢いでしまっている我が家。4SとiPad2快適です。はーやれやれ┐(゜~゜)┌

それはさておき、我が家の防寒対策としては、まずは外の冷気を遮断すること。
これについてはアルミシートが大いに役立つ。
ごく薄いフィルムにアルミを蒸着した、銀色のセキュリティシートというもの。これは今や100円ショップで買えるほどの安値。
これを、通常の布カーテンの内側に吊るす。見栄えは悪いが、断熱効果は絶大。部屋は窓から冷えるのだと実感できる。

同じく100円ショップで買えるアルミシートの、発泡材に蒸着させたもの。これも我が家ではたくさん使っている。なにせ100円だからごっそり買っても安いもの。3枚を並べてはぎ合わせ、カーペットカバーの下に敷いている。今年の春まではここにホットカーペットがあったのだが、震災直後にぶっ壊れてしまい、ちょうど節電でもあることだし、買い替えはしなかったのだった。アルミシートで乗り切るよΨ(`∀´)Ψ!

同じシートを風呂のサイズに合わせて切り、中蓋にした。これだけで風呂のガスが随分減らせる。

そして、ホットカーペット時代にコタツを排除してしまった我が家。さすがにリビングが寒々しいのは辛い。
てなわけで、リビングのテーブルを強引にコタツに改造してしまった。
まず、テーブルとまったく同じサイズの厚ベニヤ板を買ってきた。ホームセンターで買えば安いし、丁度のサイズに切ってくれる。
その板に、息子が学生時代の染色実習で作ったロウケツ染めの布をかぶせて、さらに上から透明のビニールクロスですっぽり覆い、裏をテープで留める。これで簡易コタツ板の完成。
あとは新婚時代から死蔵していたダブルサイズのアクリルボア毛布とありあわせの布をかぶせてコタツもどき完成。
ただこれだけではやっぱり温まりにくいので、毛布の下にはサイズに合わせてカットした発泡アルミシートを垂らし、足元にはテーブルと同じサイズに切ったダンボールにアルミシートを貼りあわせたものを敷いてある。
で、熱源はどうするかというと。
まずは湯たんぽ。
あまり冷え込まない日には、これ一つで相当温かい。2リットルの熱湯で半日持つ。
次に、我が家唯一の暖房器具、ガスファンヒーターの温風を誘導する、という方法を採用。北国ではよくある手法らしい。小ぶりのダンボールにペットボトルをつないだパイプを接続して、温風吹き出し口近くにダンボールを置く。
これで部屋もコタツも同時にポカポカ。

あと発泡アルミシートは、適当なサイズに切って布団の肩口や足元に敷くと、身体の冷えやすい箇所を助けてくれる。PCデスクの足元にも敷いている。ちょっとガサゴソするので寝心地はイマイチだけど。

そう、アルミシートは断熱には良いのだけれど、ガサついてしまうので、どこにでも使えるわけではない。
本当は、玄関のドアの内側にも吊るしたかったのだけど、それをすると出入りがかなり不自由になりそうだった。
なので、もう数年使って風合いの荒れたフリース毛布を、断熱カーテンにおろしてしまった。これまた100円ショップで買った突っ張り棒とカーテン留めクリップであっというまに設置完了。
玄関のドアから入る冷気は相当強いのだ。スチールドアなのでなおさらである。これを遮断するだけで相当違うはずである。

さて、屋内の暖房はこのくらいだとして、人体の温めも必要。
ポイントは、「クビレから熱が逃げる」ということ。
首、手首、足首。そして腹まわり。
暖かく過ごすには、このくびれポイントを覆う必要がある。特に腹部が冷えると全身が冷えるのだ。腹巻きを恥ずかしがってる場合ではない。ガンガン使おう。
……が、しかし。100円ショップで買ってきたフワフワ素材の腹巻き兼おパンツは……私の胴回りではあまりに苦しい。く、悔しい。哀しい。痩せてる人でないと100円では暖まれないのねん(´;ω;`)

足先が冷えがちなのでそこばかり温めようとするのが人情だけれども、意外にも足首をしっかりカバーしたほうが有効だったりする。レッグウォーマーがまた流行らしいのでありがたいことだ。

そして、手首と手の甲から意外と体温は逃げるらしいのだ。手袋をしてしまうと指先が使えず日常生活が滞るのだが、あえて指先部分をカットした長いパイプ状の手袋をつけることで、かなり快適になる。パソコンを使ったり読書したり。

最大に寒い時は、頭と首を徹底的に覆ってしまうこと。帽子一つで服を一枚増やしたほど温かい、とは大正生まれの母が残した教えだ。
ただ、知的作業をする際には頭は冷えてるほうが望ましいこともあるので、この場合は首を重点的に。
結論として、フード付きの服やマフラー、ケープなどが大変に便利、ということだ。

昨年あたりから話題の「着る毛布」も一枚買ってしまった。ロングタイプなので、いろいろ応用が効く。ただ、これを着て家事は出来ない。あくまで便利な毛布と考えないと。

ラスト、身体の内から温める方法として、生姜湯は欠かせない。生姜を冷凍しておいて飲むたびにすりおろしたり、細かく刻んで砂糖や蜂蜜で漬け込んでおいたり。
お湯を電気ポットで沸かして保温するなんて勿体無いことはしない。ガスで沸かして、真空ステンレス水筒に入れておく。24時間はバッチリ熱々だ。生姜湯、コーヒー、ココアに緑茶、なんでも来い。

ステンレス水筒はともかく、アルミシートもフリース素材も20年前には身近には無いものだった。こんな安価な素材でここまで寒さを防げるなんてことは想像もつかなかった。科学文明バンザイ、なのである。

てな感じで、21世紀の科学を、浪費的にではなく節約的に活用してみませんか。レッツエンジョイ節電ライフ!('∇')

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星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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