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2012. 11. 29  
「別海から来た女 木嶋佳苗 悪魔祓いの百日裁判」を読んだ。

この連続殺人事件は随分話題になったし、死刑判決も下ったし、なんとなく概要は知ったつもりになって、そのまま忘れ去るところだった。
が、東京ポッド許可局ラジオにおいて、二冊のレポート本を同時に紹介する回があり、その比較検討が実に興味深く、面白かったのだ。

曰く、女性の書いたレポと、男性の書いたレポとの差異。
そこから浮かび上がってくる、木嶋佳苗という存在の異様さ。

なかなかにただならぬ女性が引き起こした事件であったらしい、と感じ、その二冊ともを図書館に予約した。とても人気の高い本らしく、100人以上の待ち。ようやっと、男性の書いた方の本が先に届いたのである。

佐野眞一氏の文章は、明確で判りやすい。スラスラ読み進む。意欲的に飛び回って多くの取材をこなされている。
えっ、そんなとこまで? と驚くくらいの遠い縁の関係者にも会いに行かれて、僅かな情報も漏らさぬ丹念なお仕事ぶりである。

が、それなのに。
そんなに丁寧に、かつ熱心にお調べになったというのに、なんということだろう。
木嶋佳苗、という人物のことがおよそさっぱり判らないのである。読んでも読んでも判れないのである。
住環境、親族の感想、学生仲間の印象、卒業アルバムの内容。
彼女に騙され、金を毟られ、殺されかけて危うく難を逃れた男性たちの言葉。
裁判に臨む彼女自身の反応その他。

判ることはある。だが、どうにもピンと来ないのには心底困った。
周辺状況は判る。上っ面の反応は判る。何が起こったのかも判る。

だが、木嶋佳苗という女性の、「人物」が判らない。ツルツルとすべてが滑り落ちていくガラスの球に篭っているかのように、見えているのに触れられないもどかしさ。
彼女が何を思い、何を考え、何に一喜一憂して、何のためにこれほどの事件を引き起こしたのか。
そういうことが、肝心かなめのことがさっぱり判らないのである。

実際のところ、著者であられる佐野氏ご本人も「ゾッとするほど判らない」という状態になられていたのではないのだろうか、と思う。
なので佐野氏は、多く推論なさる。きっとこうに違いない、という判断を多く記されている。
この本には、様々な事実や情報、本人の反応を目の当たりにした上で、氏が感じ取り、推察なさったことはふんだんに書かれている。
が、そのほとんどが、私にはピンと来なかったのだ。納得しかねたのだ。氏の義憤、怒り、許してはならないという思い、それは痛いほど伝わってきた。
それでも、私はどうしてもそれに同調することが出来なかったのだ。
何よりの重要事である、被告の動機、被告の心、それが見えてこないからなのだ。

木嶋佳苗は、こういう者です。こんな風に思い、こんな風に考え、こんな事情と動機でもって行動します。

それを知ることの出来るレポートでは無かった。これほど綿密で熱意に満ちたデータの数々をもってしても、それが判らない。なんということだろう。この異様なまでの得体の知れなさは、いったいどういうことなのか。

「嘘つきなのだ」

と繰り返し書かれる。様々な証言、記録、情況証拠などからも、彼女の言い分が嘘偽り、ごまかし、すり替え、欺瞞に満ちていることは察せられた。
稀代の詐欺師。息するようにウソをつく者。業務のように淡々と殺人をこなす者。
心を閉ざし、多くを語らず、動揺を見せぬ者。
そんな人物の心が簡単に推し量れるはずもない。

が、どうにもこうにも「判らないことが落ち着かない」状態になってしまった。
そして、被告本人の長文の手記が、ネットで読めることを知り、すっ飛んで読みに行ったのであった。
読んだのはこのページ。一部伏字になってはいる。
興味のある向きは是非ご一読を。

感想を一行で書くなら

「他人事じゃねぇよ、おおブルブル((((゜Д゜;)))) 」

そして、まずこういう感想を持ってしまったあたりが、この女性のもっとも恐るべき部分なのかもしれない。
失礼ながら、美貌の主とは言いがたい御仁。が、次から次へと男性は夢中になり、言うがままに大金を彼女に貢ぎ続けた。何が彼らをそうさせたのか。肉体的魅力、応対の物腰の色香、理由は様々あったと思う。
人物の魅力というものは、美貌だけにあるのでは決して無い、という証明のような事情だったのだろう。

「ただならぬ、特別な人物。それが判る、心惹かれる自分自身も、また特別」

こういう感慨と共感と優越感を男性に持たせることが出来る、そういう部分があったのではないだろうか。

「大抵の人には判らないだろうけど、自分には判る価値」

ある意味、無敵で至高の想い。それを喚び起こせる能力があったのではなかろうか。

そしてその能力の礎になった部分にあるものは、人としての闇、魔性、魔物としか言いようがない、様々な混沌。
人間として持つべきではない、悪しき性根。
それについては彼女本人もはっきりと自覚があったらしく、手記にも何度も記されている。
何よりも私が「他人事じゃないなぁ」と感じたのもその部分だった。本当に、私も三歩間違えれば彼女と同じ道をたどったろうという気がする。

そうならずに済んでいるのは僥倖に恵まれたからでもあるし、まったく別の生き方を選んできたからだろう、とも思う。
かろうじて人道を踏み外さずに済む生き方。
現実と心がどうしても折り合いがつかず、生きてゆくことが辛く、それでもなんとか取り繕ってやって行かねばならないストレスから、少しでも自分を救う方法。
彼女と私は別の方法をとった。
ただそれだけが違いだったのかもしれない。


書くべきこと、知るべきこと、どちらもまだまだ膨大にあるわけだが、一足飛びに単純な結論を出して今日はもうオシマイ。

「私ゃ、オタクで本当に良かったよ」

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2012. 11. 21  
最近思ってること。

「魅力」という言葉は判りやすい。英語にもチャームというピッタリの言葉がある。普遍的なイメージなのだと思う。

人を惹きつける力。
人気を呼ぶ力。
愛される力。

で、最近つとに思うのだ。なぜこの言葉の反語が無いのだろう? と。

人に嫌われる力。
どんどん人心が離れていく力。
周囲を暗くする、不愉快にさせる力。

老人力、という言葉が生まれるならば、魅力の反語があっても良いと思うのだ。
魅力に満ちた人物が当たり前に居るのと同じように、その反対の力に満ちた人物もまた、確実に世には居る。



さて、魅力の反語。仮に**力と呼ぶが、具体的にはどういう状態を指すか。
これについては、少し前にネットで話題になった

「宝塚 ブスの25ヶ条」というのが絶好のテキストになると思う。

宝塚歌劇団に受け継がれた教え。
あまりに素晴らしい内容なので、全文を揚げておきたい。


笑顔がない

お礼を言わない

おいしいと言わない

目が輝いていない

精気がない

いつも口がへの字の形をしている

自信がない

希望や信念がない

自分がブスであることをしらない

声が小さくイジケている

自分が最も正しいと信じている

グチをこぼす

他人をうらむ

責任転嫁がうまい

いつも周囲が悪いと思っている

他人を嫉妬する

他人につくさない

他人を信じない

謙虚さがなくゴウマンである

人のアドバイスや忠告を受け入れない

なんでもないことにキズつく

悲観的に物事を考える

問題意識を持っていない

人生においても仕事においても意欲がない

存在自体が周囲を暗くする



ブス、ということになっているが、私はこれは男女や洋の東西を問わない、どこのいつの人々にでも適用できる、法則のようなものとしての洗練を持った教えだと思う。

一読してもらえば判るように、見かけの容姿に触れた箇所はほとんど無い。
おおよそが「心がけ」「こころ映え」「生きる姿勢」と言うべき、精神論だ。

人気のある人物とは。魅力とは。人に好かれる能力の本質とは何か。
反語の形でそれを表した25ヶ条。
こうはなってはならないのだ、と、美貌に何の優位性も無い歌劇団の世界(みんな綺麗が当たり前)で、必死の切磋琢磨をしてこそ、花形スターへの扉が開かれる。魅力は努力で作られるものでもあるのだ。

魅力は社会での実利にも繋がる。
魅力のために努力すること、パワーアップするために努力すること、これは別に芸能界に限らず、社会のあらゆる場所で必要とされることでもある。

さて、やや奇妙なことだと私が思うのは、その魅力の全くの反対、仮に「**力」と呼ぶ力、まさにここに掲げた25ヶ条の内容そのものの行動のパワーを、わざわざ磨いて高めて続けているとしか思えない人物も、世には確実に居る、という事実だ。

何のために、そんなことをするのだろう?
あるいは、まったく無自覚だからそうするのか?
他者に嫌われ、他者を不愉快にして、いったい何がしたいのだろう?

だが、ある種の人々は、まるでそうすることが正義だからと言わんばかりに一心不乱の行動力で「**力」を強化し続けたりするのだ。
しかし、まさにそのものズバリの一項がある。

「自分が最も正しいと信じている」

つまりやはり、**力に満ちた人物というのは、正義の信念でそれを行なっている場合が多い、ということになるのだ。こりゃまたなんと厄介な。
当然、
「いつも周囲が悪いと思っている」
し、
「謙虚さがなくゴウマンである」
というのも当たり前の帰結になる。

そして
「なんでもないことに傷つく」
という心の弱さをも、
「自分は繊細で感受性の高い純粋な存在だから」
とアピールして歓心を買うための武器になると思っていたりする。


どうにも最近、人心のそういう「悪」としか呼びようのない働き、力、他者を困惑させ不快にさせることこそが目的となっているかのような行動の数々があまりに目に余ることが多いので、いっそのこと、なにかピッタリでかつグサッと脳裏に刺さるような言葉を創り出してやったらどうだろう、と思った次第。



が、困ったことに、私では低能過ぎて、よいネーミングが浮かばない。

「魅力」の反語。
人に嫌われ、人に避けられ、人に不愉快をもたらす力。
イヤな人間になるための力。

どうか、この力に、名前をつけてくださいませんか。

私の手には余るのです。きっと、私自身がその力を実はふんだんに持っているからかも知れませんが。


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2012. 11. 10  
毎年恒例となった練馬アニメカーニバル

今日は影山ヒロノブ氏のライブがあるので、病み上がり(胃腸に来る風邪だった)を押してフラフラと参戦。
昨年、水木のアニキのライブを

「ひどい土砂降りだからやめやめ」(素晴らしい内容だったらしいのに!)

とスルーしてしまったことをずっと後悔しているので、今年はもう行きたいと思ったら行くべきだと思い決めたのだった。
それに、つい最近アニソン周りで心底ガッカリしてしまうような凹む出来事もあり、

「もうこうなったら、その道ン十年のアニソン歌い、人生の半分以上をアニソンと共に生きてきた、マコトのアニソンシンガーの歌声に触れて癒されるしか無い!」

という強烈な動機もあったのだった。


メイン会場・エルドラドステージは立錐の余地もない大盛況。登場するなり観客のハートをガッチリつかむヒロノブ氏。巧い。明るい。なによりも笑顔が素晴らしい。光が溢れこぼれるような笑顔。
スターとは、タレントとはこういうもの、と言いたくなるような華々しさ。
全身で刻むビートの確かさが明朗さを倍加する。ステージングの妙。よどみないトーク。

熱唱が続いた後、アコースティックギターを手にするヒロノブ氏。

「デビューが35年前なんですけど、その時、初めて人前でミッシェルと呼ばれたのは、実はこのとしまえんのステージだったんですよ」

れれれ レイジーのことですねっ

35年前。私はまだセーラー服の学生だった。いまだオタクになってはおらず、マンガこそ人並み以上に好きではあったが、ベイ・シティ・ローラーズやジャニタレをキャーキャー追っかけるごくごく普通の女子だった。その頃、確かにレイジーというグループが存在し始めたことを覚えている。

ギターを爪弾きながら、歌謡曲風のナンバーを歌い始めるヒロノブ氏。赤ずきんちゃん御用心。確かに聞き覚えのある歌。気分はすっかりセーラー服のあの頃、まだ少女だった頃の気分に戻るのだった。

そして次の曲。アコギのまま弾き語る、バラード調の「牙狼~SAVIOR IN THE DARK~」
私の大好きな一曲。魂の歌と呼ぶグループに確実に入れる一曲。
本来は激しい曲を、あえてしっとり情感たっぷりと。

繰り返し語ってきたが、私はアニソンには祈りのようなものが必要だと考える。
それと同時に、「この世ならざるもの」を見て、感じ取って、それを伝える能力が必須だと考える。
この世そのもの感情や感動や思いや切なさなんぞは、普通のポップスその他に任せておけば済むことだ。

アニソンにはアニソンにしか出来ないことがあり、アニソンにのみ課せられた使命がある。
それは、未だ知らぬもの、未だ見たこともない世界、未だに誰にも手の届かない理想の高みを示すことにある。
未知への扉。未知へ挑む勇気、気概、希望。
それを奮い起こさせ、前へ進む力を与えること。未見なる神秘の素晴らしさを教えること。理想を追い求める姿勢を示すこと。

想像すること。目の前に無いものを想像すること。それを現実にするための力を求めること。
アニソンが喚起する心とはそういうものなのだ。
故に、歌い手にもその心、その能力がふんだんに必要とされるのだ。

自身で作詞作曲も手がけ、手ずからギターを弾き語るヒロノブ氏。その夢の精髄のような一曲がこの牙狼の歌だと思う。素晴らしかった。涙ポロポロ。

ジェットマンのエンディング、真ゲッターの歌、僕たちは天使だった、名曲ばかり続く。
そしていよいよ最後の一曲だと言う。

「聖闘士星矢ー!」

えっ ソレ? 一瞬、脳裏に疑問符乱舞。いや代表曲だし大ヒットだし誰でも知ってるし続編やってたし。
でも、でも、まだアレを歌ってないじゃないですか。客席の最後尾には、あからさまにそれを待っていると思しきコスプレの一団も居られるというのに、アレを歌わず帰るんですか?

大盛り上がりで聖闘士星矢が終わり、舞台袖に消えるヒロノブ氏。
当然、両手を打ち鳴らし、怒涛のようなアンコールである。エルドラドステージがまさに一つになった瞬間。
アンコール! アンコール! アンコール! 

「アレを聴かずに帰れるかー!!」

拍手に包まれて再登場のヒロノブ氏。
アンコール曲は当然、理の当然、コレである。

「CHA-LA HEAD-CHA-LA」

最前までステージで活躍していたドラゴンボールショーのキャラさんたちも登場して、白熱のうちにライブは終了。

まるで振りこぼれる陽光のようだったステージ。赤褐色の明朗オーラ。
聴いてるだけで病み上がりの身体に活力が湧いてきた。
あんな風に歌えたらどんなに良いだろう。
ああ、アニソンって、本当に良いな。またカラオケ行って、思い切り歌いたいな、そう思いながらフリマを冷やかして帰宅したのだった。

アニソン万歳。
アニソンよ永遠なれ。
アニソンよ、願わくば金の亡者の餌食となるともその輝き損なうなかれ。
その存在意義こそは、生命そのもののそれと同一なればこそ。

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2012. 11. 03  
久しぶりに夫の人と映画館へ。
観るのは公開初日の「のぼうの城」

上映時間がかなり長い。
が、長さを感じなかった。本当に、疲れること無く隅々まで楽しかった。

登場人物の魅力がまず第一の映画。
たった五百の戦力で、二万の軍勢に耐えた城。それを率いた男は如何なる者だったのか?
智将か?
天才か?
勇猛果敢の英雄か?

どれでもないのだ。見事なほどに、そのどれも無いのだ。呆れるほどのスットコドッコイなのだ。小さく、か細く、ひょうげた男。農作業が大好きで、見物に来ては手伝いを申し出る。が、あまりに不器用なので散々なことになるだけ。百姓にとっても迷惑千万なオサムライ。
が、同じ田畑で泥にまみれて、いつも一緒に笑っている彼はとてもとても慕われていた。
この上下の別の無い人望こそが最大の能力であった、そんな男。

この稀有な城主を、野村萬斎が演じる。彼ならば当然のことであるけれど、やはりというか、まさに鬼気迫る怪演。阿呆のような、抜けまくった不思議な存在でありながら、時折見せるカミソリみたいな鋭い眼差しにゾクゾクした。
この男、決して見かけどおりの柔弱ではない、底知れない恐ろしさを秘めた器であると、言葉も無く、動きも無く、ただたたずまいだけで示せる演技。善いものを見た。最高のものを見た。心の底から満足出来る、幸せな気分になった。映画館に来て本当に良かった。

魅力的だったのは主人公だけではなく、敵の総大将、私のご贔屓武将の一人、石田三成もすごく良かった。
不明なことに、最後のテロップを観るまで、上地雄輔が演じているのだと、私はまったく気づかなかった。隅から隅まで三成にしか見えてなかった。智謀神のごとしと言われながら、愚直すぎ不器用すぎで、妙に阿呆さが残った存在を、万全の形で演じていたと思う。

彼のそばにずっとはべる朋友。大谷ヨシヒコ、もとい大谷吉継の山田孝之が放つ独特のオーラがこれまた良い。

城側の実質的なサムライのリーダー、丹波役の佐藤浩市のカッコよさと来たらもう。

他にも数え上げたらキリが無いほど、綺羅星のごとく登場人物一人一人に魅力がある。ただまぁ、市村正親の秀吉は、流石にイケメン過ぎる気はした。むしろ野村萬斎の方が秀吉にピッタリの気もするが、それが実現する日がくるやらどうやら。


キャラが魅力的であること以上に感動的だったのは、絵作りに迫真性が満ちていたことだ。緻密で、丁寧で、心遣いと覇気に満ちた画面の連続だった。
特に合戦シーンの勢い、スピード、迫力はかの黒澤映画を思わせるテイストで、夫婦ともども随喜の涙。実写の時代劇映像で、これほど心地よいものを観ることができたのは久し振りだと思う。

そしてなによりも。
物語として、映画として。
原作者、およびスタッフが作品に込めた思い。伝えたかったこと。
それがあまりに明確で心に響くものだったこと。
まさにこの時代、この現代に伝えるべきだということなのだな、と受け取れたその思い。
それがどういうテーマだったのかということは、是非劇場まで足を運んでご自身の眼と心で感じ取って頂きたい。

キャラよし、スジよし、描きよし。
三拍子揃った見事な娯楽超大作。「のぼうの城」、オススメです。

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プロフィール

星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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