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2009. 11. 21  
崩壊寸前のローマをとりまとめ、現実的な延命策をあれこれ施し、とっとと退位してしまったディオクレティアヌス。
だが、彼が成立させ、盤石であれと願ったであろう四頭政(テトラルキア)は、2代目に代わるやいなやただちに揺るぎだし、帝国は再びの混乱時代に突入するのだった。
混乱をついて、彗星のごとく頭角を現したのは、後に「大帝(マーニュ)」の尊称を捧げられ、キリスト教会の聖人ともなるコンスタンティヌスだった。
コンスタンティヌスは、ディオクレティアヌス時代に副帝を努め、その後正帝となったコンスタンティウスの息子である。
父コンスタンティウスは若かりし頃、宿屋の娘であった16歳少女ヘレナと恋に落ち、結婚してコンスタンティヌスをもうけた。
だが、父は副帝の地位に昇るための地位がためとして、妻ヘレナを離縁し、皇統血統のテオドラと再婚せざるをえなかった。行き場の無くなった元妻のヘレナと息子のコンスタンティヌスの身元引受人になったのは、当時のトップ皇帝・ディオクレティアヌスだった。コンスタンティヌスは行動力や統率力を兼ね備えたこの皇帝の薫陶を受けて育ったことになる。
成人し、正帝となった父の元に馳せ参じ、有能な司令官として評価を高めていくコンスタンティヌス。
着々と実績を積みつつ、崩壊しつつあった四頭政の混乱期をやり過ごし、大胆な指揮と冷徹な政治センスでもってライバルを打ち倒していく。
そして313年、西ローマの正帝コンスタンティヌスと東ローマ正帝リキニウスはミラノで会談し同盟を確認し、その直後、歴史的な声明であるミラノ勅令を連名で発表するのである。
ディオクレティアヌスの大弾圧から一転、キリスト教徒、いやキリスト教徒のみならず、ありとあらゆる宗教の信仰が、帝国内では容認される、とされた決定であった。そして、弾圧によって奪われたキリスト教徒の資産の返還をも国家によって保障される、とされた。すべての宗教を認めるからには、弾圧による収奪はすでに不当であり、国家としてそれを是正するべきだから、というわけである。
だがこの一項がその後のローマ世界におけるキリスト教の復権と浸透に、凄まじいスピードを与えることになるのだった。

私はこのミラノ勅令には、初代皇帝アウグストゥスにも匹敵するほどの冷徹な意図が秘められていた気がしてならない。勅令はあくまで表向きは、「あらゆる信仰の容認」に過ぎない。弾圧後のキリスト教徒の救済も、その付随要素に過ぎない、ように一応は見える。
あくまで自分は元老院主体の共和制度を尊重する、という姿勢を見せながら、巧妙な政治手腕でじっくりそれを帝政に覆していくように誘導していったアウグストゥスの、秘められた裏の目的と、その実現。自分の為すべき事、為したい事を冷静に分析し、確実な実行のための手を打っていくやり方のクールさは、やはり相通じるものがあると思えたのである。
だがコンスタンティヌスは、アウグストゥスには無かった強引なまでのパワーも併せ持っていたようだ。

西のコンスタンティヌス、東のリキニウスがついに激突する時が来た。戦力では劣るコンスタンティヌス陣営は、コンスタンティヌスの息子クリスプスの率いる軍勢の活躍もあり、リキニウス陣営を打ち破り、ついにコンスタンティヌスがローマ帝国唯一の権力者の座に登り詰めるのだった。

これをもって、「ローマ世界の終焉」とする史家は多いという。
唯一絶対の皇帝となったコンスタンティヌスは東方のビザンティオンに新たに都を建設し、これを新ローマ、コンスタンティノポリスと名付けて遷都を実行したからである。
長らく「カプトゥ・ムンディ(世界の首都)」であったローマは、棄てられたのだった。
そしてローマをローマたらしめていた多くのものも、棄てられることになった。
新都コンスタンティノポリスには、ローマ伝来の神々の神殿はもはや無かった。神々とゆかりの深いコロッセウム(円形競技場)も、ギリシャ悲劇を上演する半円形劇場も無かった。
だが、キリスト教の教会はあったのである。

ライバルを撃破し、なにもかも刷新した新首都を作り、専制君主となったコンスタンティヌスは、どんどんキリスト教の振興にも努めていくことになる。

多神教であるローマの神々には、教義、というものがない。神々はあくまで人々の努力を認め、それを守護し助ける存在と見なされていたに過ぎなかったからだ。
だが一神教の神はそうではない。人々に対して「こう生きるべき」と教え諭す存在である。
ただ神像を拝んでさえいれば御利益がある、と信じていられた多神教とは本質的に違うのである。
つまり一神教と「教義(ドグマ)」は分離不可なのだ。となれば、その教義をまとめ、理解し、信者に伝え教える指導層が必要になってくるのである。
コンスタンティヌスはこの指導層を手厚く保護した。司教、と呼ばれる存在である。
国内が荒れ、キリスト教に帰依したローマ市民は急増したが、コンスタンティヌスの時代、その多くが、この国家による保護すなわち利益目当てであったのが実情ではあったようだが。

コンスタンティヌスがキリスト教の洗礼を受け、正式な教徒となるのは死の直前であったと言われる。
母ヘレナは早くからキリスト教に帰依しており、彼自身も夢の託宣によってキリスト教のシンボルを掲げて闘い勝利し、専制君主となって以後はキリスト教への優遇策を多くとり、キリスト教徒として死んだ皇帝。君主としての支配を固めるためのパワーとしてキリスト教を利用した、という側面ももちろんあっただろうが、キリスト教会もまた、彼の存在をあますことなく利用し尽くしたのだろう。コンスタンティヌスの寄進状(Wiki参照)という偽書の存在や、新都コンスタンティノポリスを聖母子に捧げる皇帝のモザイク画などを見れば見るほど、すでにこの時代、かつてのローマの輝かしい栄光や誇りがどれほど遠いはるかな幻と化していたかを思い知るような気分になるのだった。


大帝コンスタンティヌスの死後、ローマ帝国は彼の息子たち、および甥たちに受け継がれる。
だが、多くの後継者の存在は争いの種にしかならない、という世界の歴史の鉄則のようなものが、ことさら凄惨な形で帝都を血塗れにしていくのだった。
「ローマ人の物語XIV キリストの勝利」、突入なのである。



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人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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