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2010. 08. 12  
昨年度のベスト1アニメの誉れ高い「マイマイ新子と千年の魔法」をやっとのことで鑑賞。

見終わった後、文字通り腰が抜けて動けなかった。素晴らしい。言葉を喪うほど素晴らしい。


これは、偉業である。


タイトルだけを見ると、なにやら日常にホンのわずかなファンタジーを織り交ぜた、ちょっとした冒険と感動の物語なのか? と思う。

だがしかし。
この作品には、ファンタジー要素もSF要素も、それこそかけらぽっちも無いのである。
そこにあるのは、現実から一歩も離れることのない、それでいて限りなく素晴らしい、人生そのものなのだった。

地方に生きる少女達と少年達、取り巻く大人、千年の昔より続く村。
なにも、事件は起きない。
いや、何も無いわけではない。麦畑ばかりの田舎の町に、小洒落た服を着た転校生がやってくる。見たことの無い文具。見たことの無い家。別の空気を吸って生きているかのような、垢抜けて無口で謎めいた少女。
これだけで、小学生にとっては事件そのものなのである。

群れなして遊び、気が着けば一番小さな子が居ない。必死に探すが見つからない。陽はどんどん暮れかかり、子供たちの不安が募っていく。これだって、やはり事件なのである。

ひたすら広がる麦畑、青い空、済んだ川の水、そのすべてにイマジネーションを遊ばせ、千年前にここにあった都やどんなであったろう、きっとこんな風であったろう、そこには自分たちと同じ歳頃の少女もいて、どんな遊びをしていたのだろうか? 友達はいたのだろうか? と、限りなく夢想を繰り広げ、それを心の栄養にして伸びやかにたくましく成長していく少女たち。共に過ごす少年たち。
彼女たちが居るのは、私たちの現実と地続きの過去。そこもまた、現実そのもの。そして千年昔も、まったく同じように地続きの過去。
そこに、そうして、ただ生きて在る。
何も足さず、何も引かず、ありのままにただ生きて在り、楽しみ悩み哀しみ苦しみ、日が巡って行くこと。
ただそれだけのことが、これほどまでに美しく、素晴らしい。

当たり前でしかない、現実的でしかない、なんの変哲も無い人生。
ただそれだけのことを、これほどまでに美しく、感動的に、活き活きと価値高きものとして描いてみせる作品などというものは、アニメ鑑賞歴の長い私たち夫婦にとってすら、滅多にお目にかかれるものではないのだ。

アニメは絵である。現実を映すものでは無い。脳内のイメージ、理想のようなもの、それらを具現化して命を与える魔法がアニメーションである。
だからなのだろうか、アニメで扱われる題材は、非現実なものが多いのだ。
そして昨今のアニメ界を席巻している「美であらずばキャラにあらず」とでも言うような、ほとんど呪いのごとき定型。理想、夢想を追求しすぎて、それがもたらす快楽ばかりを追求しすぎて、煮詰まりきったあげくに自由度を喪い窒息しかけているかのような、キャラ中心の世界の群れ。

はっきり言おう。私は最近、ほとほとこういう風潮にウンザリしかけていた。
そりゃぁ私だって美形は好きである。男性が美女美少女を好きなのと同様に好きである。美しいものは見ていてキモチイ。キモチイイから好き。いくらでも欲しくなる。

だがしかし。
どうしても心にひっかかって取れないトゲのようなものが在ったのも確かだった。本田透君提唱するところの、萌えに代表される脳内恋愛、理想の追求によって自己実現とし、苦しみから自分を救うべき、という生き方には深く同調もしていたし、それは現代の日本に必要な流れだとも思っていたのだが、その心理の奥では
「でも、何かが足りない気がする、きっとそれは袋小路にしか行かない道。それだけでは、苦悩は消せても、突破できないなにかにぶち当たるだけなのではないか?」
という疑問はぬぐえなかったのだ。


マイマイ新子は、とても地味な作品ではある。アドベンチャーもスペクタクルもサスペンスもミステリーもファンタジックもそこには無い。さらに言うなら、主人公の新子は、どうということのない、芋臭い田舎の子でしかない。東京からやってきた転校生の少女も、垢抜けて上品ななりではあっても、よく見ればどこにでも居そうな控えめで辛気くさい地味な子でしかない。まわりに居る少年たちときたら、鼻の穴クッキリだったり反っ歯だったり青っ洟垂らしてそれが鼻と口のまわりにガビガビになっているのを気にもしないような、泥と糞の匂い漂う、愚鈍で粗野で耐え難いまでに不潔たらしい、どうにもこうにも「クソガキ」としか言えない連中だし、ほんのわずかにイケメンオーラを漂わせていた上級生も、帽子を脱いだとたんにマヌケでアンバランスなお笑いヅラをかいま見せてしまったりする。
美少女も、美男子も、そんなものは実はどこにも居ないのだ。(居たとしてもホンのひとつまみ)
それこそが現実。
私たちの生きる、現実。
だがそんな現実こそが、現実なればこそ、かくも素晴らしい。
なぜなら、生きているから。ずっとずっと続く時の中、世界の中で、どこだろうといつだろうと、同じ人間として、同じように、みんなが生きているから。
世界は、人の生とは関わりなくただ存在し、夕暮れは美しく時に哀しく、夏の空は爽快に青く時に残酷に照りつけ、風は涼しく時に命を奪うほどに冷たい。
人を思いやることなどなくただ在る世界。その中で人間はさまざまな思いを抱えてただ生きる。世界から与えられることもあれば、世界に蹂躙されることもある。
生きてゆくために、世界を利用し恵みを受け、蹂躙とは戦う。知恵を絞り、協力しあい、困難を退け、繁栄と存続のために、「ヒト」は「人間」となって生きる。
力を合わせる事無しに、成し遂げられることはあまりに小さいからだ。ヘタをすれば生きてもゆけないからだ。

ただ、生きること。生きてあること。ただそれだけのことを、これほどの映像美で描ききること。素晴らしいこと、として描ききること。
これは、偉業なのである。
並大抵の技量と才能でできることではないのである。
すみずみまで届く注意。思慮。想定。知覚のすべてを振り絞って世界に対峙し、吸収して理解し、それを換骨奪胎して顕すことのできる能力が必要なのである。

その能力が不足している場合、多くは「ケレン味」に逃げざるを得なくなる。あり得ないほどの美形を描いたり、あり得ないような世界や設定を描いたり。
だが私はそれを否定はしない。断じてしない。
なぜなら大好きだからである。現実はキライで、非現実が大好きだからである。
正確に言うならば、非現実な美や華麗がもたらしてくれる快楽が好きだからである。

だがしかし。
甘い物ばかり食べていたら糖尿病になって生涯苦しむのにも似て。
夢の見過ぎ、がもたらす弊害をそろそろ問わねばならないところに私たちは来ているような気がしてならないのだ。

マイマイ新子は大いなるヒントを与えてくれる作品かもしれない。
なぜなら、さりげなくも、夢想妄想に寄り切ったオタク世界、オタクそのものに対する密やかな挑発、といったものが根底に隠れていたりもするからだ。
それがどういうものなのかは、是非ご覧になってその目で確かめていただきたい。


つくづく、しみじみ、素晴らしい作品だった。ありとあらゆる人に見て欲しい、至高の傑作。これほどの感動は、「河童のクゥと夏休み」以来かもしれない。そういえば、クゥの原恵一監督の新作「カラフル」の公開も間近である。楽しみだこと!


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Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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