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2011. 04. 26  
ようやく待ちに待った「魔法少女まどか☆マギカ」の完結話が放映された。
私の想像とはやや違う流れになっていったが、それなりのまとまりと収束をもった、綺麗な最期になったと思う。
特に最初から最後まで貫かれた、演出と作画の統一された映像美の見事さは圧倒的で、破格の展開とテーマを持った稀有なストーリーと絡みあって、滅多には成立しない高度な作品性に結実したと思っている。

やや意外だったのは、放映直後のネットにおける評価があまり芳しくないことだった。確かに私自身にも、納得の行かない点がいくつかあった。だが、果たしてここまで罵倒されるほどの瑕瑾であったろうか? とさんざん首をかしげるほどの、それは激しい反発を多数見ることになった。
が、すぐ気づいた。この悪意と不満の嵐はまるでデジャヴ。そう、エヴァンゲリオンTV放映時の空気とそっくりなのである。あの大騒ぎを思えば、それこそまるでワルプルギスの夜のようであった狂気狂乱を思えば、コップの中の嵐のようでもある。エヴァの時に起こった怒号の多くは、謎を謎として解明することもなく無理やりすべてをぶち切って放り出したかのようなラストを提出してしまった、語り部の無責任さに向かったものであった、というのが私の解釈だった。
まどか☆マギカの語り部、虚淵玄氏は発端から最期まで徹底的に練り上げ構築した物語世界を堂々と述べきった。見事であった。広げまくった風呂敷を畳むこともできぬまま、大八車で夜逃げするような尻切れトンボの作品の数々に心底ウンザリし続けてきた私にとって、虚淵氏の一歩も引かない偉丈夫ぶりは、いくら賞賛しても足りない立派さだった。

そして、その野心溢れる挑戦的シナリオを最大限に活かすべくフル回転した、シャフトの製作力。なんと凄まじい演出であったことか。神々しい、と言いたくなるような作画がどれほど多かったことか。映像美というものは、金や手間暇をかければ出来上がるというものではない。なによりセンスが問われる。一見、ありふれた美少女萌えキャラに見えるデザインのまどかたちの姿に、どれほどのテンションが満ちていたことか。生々しさと魅力が詰め込まれていたことか。改めて、シャフトという制作会社の地力の恐ろしさを思い知る作品ともなった。
もっとも、シャフトの製作力はまどマギに限らず、常に発揮され続けるシーズンがずっと続いてもいるようなのだけど。今期の「まりほり」「電波女」でもそれは変わらないようだ。もっとも、話の内容はまどマギに比べてしまうとずいぶんと希薄ではあるけれど。


エヴァほどの大騒ぎにはならないにしても、似た匂いの嵐をまどマギは起こし得たわけであり、結果として関連商品の売上は結構なものになるだろうと見ている。既に各ショップでブルーレイボックスが軒並み完売状態となっており、どこまで数字が伸びるかが大変楽しみだ。

まどマギという作品が金銭的にも優れた結果を残すことの意義はとても大きい。
まずは、オリジナル企画であった、という点。
そして、内容が思想そのものを揺るがすほどの衝撃や提言を持った挑戦的なものであった、という点。

前者は、慢性的不況に陥って閉塞していたアニメ文化の状況そのものに風穴を拓くことになり、後者は精神的閉塞と社会不安にさらされ続ける日本人の心理そのものに改善と恢復のための道しるべを示し得るだろう、と私は期待するのである。


最終回直後、ネットで散見した否定的意見の中に興味を惹かれる表現があった。
「この話は愛を否定する挑発的なもの」
といった主旨であったと記憶している。
私は思わず頷いて独り言を言ってしまった。
「だからこそ素晴らしいんだよ!」と。

そもそも愛が何かを知っている人がいったいどれほど居るだろう。私はこのブログで幾度と無く書いてきた。「愛の名のもとに行われる暴虐」と。
今こそ、愛情、恋愛、正義、善意、信頼、絆、そういう麗しい言語の意味が問い直されねばならない時代なのである。意義を失い、虚飾と化した綺麗事による弊害の恐ろしさが語られねばならない時代なのである。所詮は利得のためでしかない行動を、都合の良い言葉で飾り誤魔化し、不都合は見ないように、忘れるように、無かったようにやり過ごして騙し騙し回してきた現実のツケを、私たちはいずれ必ず払わねばならない、という事に気づかねばならない時代なのである。

恋しい少年の怪我を治すために契約し、それが魂を売り渡した人外になることだったと後に知り、希望を喪失し怒りと呪詛に満ちてゆき、絶望と共に魔女へ堕してゆく乙女のエピソードこそがまさに象徴であった。
従来の物語原則を通せば、彼女は愛に生き、愛に死んだ乙女ということになるだろう。
だが、異星からの簒奪者・キュゥべぇの存在がその裏に存在する残酷な本質をあぶり出す。とことん冷徹な合理しか持たないキュゥべぇの存在は、人間の感情の構造をより明確に示すための補助線のようなものであった。なんのための、愛、か。なんのための尽力、か。
どれほど意地や正義や痩せ我慢なんぞで取り繕ってみたところで、望みが叶わなかったこと、自分の思い通りにならなかったこと、つまりは満たされなかった我欲から生まれた妬みや恨みや怒りを消すことなどできない。むしろ、抑えつけるほどにそれらは酷く、強くなってゆく。そして、希望を持てば持つほどに絶望に至るという容赦ない流れが起きるのである。
そしてこの、「希望あるところに絶望あり」というゾッとするような真理は、たった一人の友人を惨禍から守りたい、と願っただけの乙女を通しても結論される。

さて、まどか☆マギカという物語はこの恐るべき結論の提出に対して如何なる答えを出したのか。
最終話への賛否両論はまさにこの点についてもっとも多く噴出しているのだと見ているが……。
それについてはまた機会をあらためて綴りたいと思うのだった。


**********************


えっと、すまんです、実際のところ、ネット上のアンチ意見の内容は多岐に渡りすぎており、決してテーマと解決法に集中してる、などという状態でも無かったです。所詮電網上の、しかも匿名での悲鳴や怒号なぞ、瞬く間に消え去り忘れ去られるものでしかなく、でもだからこそ、それらがどういう印象を残すものであったかくらいは心ひそかに留めておきたい、とも感じたのでありました(´w`)

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Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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