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2012. 11. 21  
最近思ってること。

「魅力」という言葉は判りやすい。英語にもチャームというピッタリの言葉がある。普遍的なイメージなのだと思う。

人を惹きつける力。
人気を呼ぶ力。
愛される力。

で、最近つとに思うのだ。なぜこの言葉の反語が無いのだろう? と。

人に嫌われる力。
どんどん人心が離れていく力。
周囲を暗くする、不愉快にさせる力。

老人力、という言葉が生まれるならば、魅力の反語があっても良いと思うのだ。
魅力に満ちた人物が当たり前に居るのと同じように、その反対の力に満ちた人物もまた、確実に世には居る。



さて、魅力の反語。仮に**力と呼ぶが、具体的にはどういう状態を指すか。
これについては、少し前にネットで話題になった

「宝塚 ブスの25ヶ条」というのが絶好のテキストになると思う。

宝塚歌劇団に受け継がれた教え。
あまりに素晴らしい内容なので、全文を揚げておきたい。


笑顔がない

お礼を言わない

おいしいと言わない

目が輝いていない

精気がない

いつも口がへの字の形をしている

自信がない

希望や信念がない

自分がブスであることをしらない

声が小さくイジケている

自分が最も正しいと信じている

グチをこぼす

他人をうらむ

責任転嫁がうまい

いつも周囲が悪いと思っている

他人を嫉妬する

他人につくさない

他人を信じない

謙虚さがなくゴウマンである

人のアドバイスや忠告を受け入れない

なんでもないことにキズつく

悲観的に物事を考える

問題意識を持っていない

人生においても仕事においても意欲がない

存在自体が周囲を暗くする



ブス、ということになっているが、私はこれは男女や洋の東西を問わない、どこのいつの人々にでも適用できる、法則のようなものとしての洗練を持った教えだと思う。

一読してもらえば判るように、見かけの容姿に触れた箇所はほとんど無い。
おおよそが「心がけ」「こころ映え」「生きる姿勢」と言うべき、精神論だ。

人気のある人物とは。魅力とは。人に好かれる能力の本質とは何か。
反語の形でそれを表した25ヶ条。
こうはなってはならないのだ、と、美貌に何の優位性も無い歌劇団の世界(みんな綺麗が当たり前)で、必死の切磋琢磨をしてこそ、花形スターへの扉が開かれる。魅力は努力で作られるものでもあるのだ。

魅力は社会での実利にも繋がる。
魅力のために努力すること、パワーアップするために努力すること、これは別に芸能界に限らず、社会のあらゆる場所で必要とされることでもある。

さて、やや奇妙なことだと私が思うのは、その魅力の全くの反対、仮に「**力」と呼ぶ力、まさにここに掲げた25ヶ条の内容そのものの行動のパワーを、わざわざ磨いて高めて続けているとしか思えない人物も、世には確実に居る、という事実だ。

何のために、そんなことをするのだろう?
あるいは、まったく無自覚だからそうするのか?
他者に嫌われ、他者を不愉快にして、いったい何がしたいのだろう?

だが、ある種の人々は、まるでそうすることが正義だからと言わんばかりに一心不乱の行動力で「**力」を強化し続けたりするのだ。
しかし、まさにそのものズバリの一項がある。

「自分が最も正しいと信じている」

つまりやはり、**力に満ちた人物というのは、正義の信念でそれを行なっている場合が多い、ということになるのだ。こりゃまたなんと厄介な。
当然、
「いつも周囲が悪いと思っている」
し、
「謙虚さがなくゴウマンである」
というのも当たり前の帰結になる。

そして
「なんでもないことに傷つく」
という心の弱さをも、
「自分は繊細で感受性の高い純粋な存在だから」
とアピールして歓心を買うための武器になると思っていたりする。


どうにも最近、人心のそういう「悪」としか呼びようのない働き、力、他者を困惑させ不快にさせることこそが目的となっているかのような行動の数々があまりに目に余ることが多いので、いっそのこと、なにかピッタリでかつグサッと脳裏に刺さるような言葉を創り出してやったらどうだろう、と思った次第。



が、困ったことに、私では低能過ぎて、よいネーミングが浮かばない。

「魅力」の反語。
人に嫌われ、人に避けられ、人に不愉快をもたらす力。
イヤな人間になるための力。

どうか、この力に、名前をつけてくださいませんか。

私の手には余るのです。きっと、私自身がその力を実はふんだんに持っているからかも知れませんが。


2012. 09. 10  
夫の人が拾って見せてくれた動画。

「フカシギの数え方」

まず、正四角形がある。
1つの隅から対角線上の隅までたどる道筋は、2つ。

「ではこの四角を二分割して4つにしてみましょう。対角線の隅までたどる道筋はいくつになるかな? 同じ道は通っちゃだめよ」

「6通り?」
「いいえ、このとおり12通りになります」

いっきに6倍。

では2×2から3×3になったら、どうなるか?

「このとおり、184通り!」

では4×4になったら……というのを淡々と続けていくのである。

が、命題の単純さに反して、現れる数字は世にも怖ろしい倍率で増大していくのだ。
ついにはパソコンにも手に負えなくなり、ならばスパコンでと……だがしかし……。

「おねえさん、もうやめて! 死んじゃうよ!」

「それでもね。私はみんなに「組み合わせ爆発のすごさ」を教えたいの!止めないで!」

軽く背筋が凍りそうな戦慄。数学というものの深遠と深淵。底知れぬものを垣間見た恐怖のようなもの。

最終的には
「スパコンというものが何なのか、何が出来るのか、そしてどう凄いのか」
ということが明確にイメージとして叩き込まれる動画となっている。

世界は広い。世界は深い。知らないことが無数にある。果ての無いもの。
人類の叡智をどれほど重ねようとも、世界を手にするスベなど無いのだろう。
たまには、そういう現実に気づくことも必要なのじゃないかな。

2012. 08. 02  
「帰りにダイソー寄ってくる」と夫の人からメール。
「じゃあ重曹とセスキ炭酸ソーダとクエン酸買ってきて」と依頼。
ダイソーは偉大だ。この三つの薬品があっさり安価で揃うのだから。


最近、色んな薬品を買い込んでは家事に使っている。
化粧品や洗剤メーカーの製品をあまり買わなくなった。たいていは原料であるところの薬品を買ってなんとかできることが判ったからだ。

溶かしたり調合したり試したり。気分はアルケミスト。結果はすぐ出るし、実に楽しい。
今、キッチンに常駐してる薬品はこんな感じだ。

・ミョウバン
 消臭、抗菌に使う。ビックリするほど汎用性が高い。

・クエン酸
 洗濯の仕上げに使う。抗菌、消臭、柔軟効果。水まわりの掃除。

・重曹
 入浴剤、クレンザー、洗濯助剤、消臭。汎用性ピカ一。

・セスキ炭酸ソーダ
 洗濯と掃除に使う。重曹では物足りない汚れに有効。

・尿素とグリセリン
 化粧水の材料。もうスキンケアはずっとこれだけ。驚くほど安価でしかも効能が高い。

・漂白剤
 酸素系(過酸化水素水)と塩素系(次亜塩素酸ナトリウム)の二種。
 なおこの2つは混ぜるとキケン。


・登板無し……苛性ソーダ
 買ったはいいものの、いまだ未開封。いつ石鹸作るんだよーよーよー。
 ごく微量を水に溶いただけでも、良い汚れ落としになるらしいことが最近判明。
 試してみたいところだが、危険性は上記の薬品の中でも飛び抜けてハード。
 うかつには手を出せない感じ。



パワーヒッターのミョウバンと、安打製造機の重曹がとにかくツートップ。重曹のマルチっぷりはあらゆるメディアで語られまくった感もあるが、ミョウバンはまだまだ周知が足りないようだ。が、効果の素晴らしさはまさに折り紙つき。
匂いが気になるところ、体と言わずモノと言わず、あっちこっちにシュッシュッシュ。大抵の場合、あっという間に消える。漬物に使ったり、ベーキングパウダーの素材だったり、食品添加物としても安全なものなのでどこにでも安心して使えるのが凄い。そして値段も安い。私は最初は薬局で買っていたのだが、スーパーの漬物売場にあるものの方が安くて、効果はまったく変わらないのが最近判明。ありがたや。


長らく、洗濯にも食器洗いにも純石鹸を使ってきたのだが、特に洗濯用の粉石鹸は高価であり、しかも杜撰な使い方をするとたちまち問題が発生する。石鹸カスが出たり、黄ばみが出たり。すすぎが足りないと臭うこともあった。油物を入れた樹脂タッパーを純石鹸で洗うと、いつまでもベタベタしてスッキリしないことも多い。なかなか面倒ではあったのだった。

が、セスキ炭酸ソーダや過酸化水素水を使うと、水量は少なくて済むし、滅菌も出来る。すすぎも1回で足りる。
洗濯回数が増える夏場にはありがたいことである。


薬品の管理はそれなりに面倒ではあるが、アレコレに特化した洗剤製品を揃えたってやはり管理はしなければならないし、それなら安上がりの薬品を使ったほうが良い、というわけ。

ミョウバンはじめ、各種薬品の使い方については、ネットで調べれば資料がいくらでも出てくる。
調合するのに秤や漏斗などは確かに必要だが、大抵のものはキッチンにあらかじめあるものだしね。

先日調べてみたら、虫よけスプレーもけっこう簡単に自作出来るらしい。メインの原料、エッセンスオイルが割りと高価ではあるけど。近日中に試してみよーっと。

2012. 07. 16  
大津の事件を追っていると、事件とはちょくせつ関係の無い、ダークな事も目に入る。
あまりに多いので気の滅入ること。
何が一番ナニでアレだったかって、そりゃね。

……(回想中遠い目)……

中学のころ、人権教育が始まったように思う。
多くの時間をつかって、繰り返し、繰り返し、様々なメディアを使って教えられた。
小学校で酷く虐められていた私は、人一番インパクトを受けたと思う。
真剣に考えて、長い作文を何度も書いたと思う。
って、ダラダラ長文を垂れ流すクセはその頃から既にかいw

少しばかり歳を重ねると、シンプルな人権教育に問い掛けが付け足された。
曰く「寝た子を起こすべからず」という提案についてどう思うか、というもの。

周知と啓蒙でそれは解決するべきか。
隠蔽と忘却で事実自体を消すべきか。

私に答えは出せなかったが、それでもなんとなく印象として、
「覆い隠しても効果は無いかも、教育の継続で解消できる未来に希望を持つほうが良いかも」
とぼんやり思っていた。
人間は、秘匿されたことを暴きたがる性分だと気づき始めていたし、それよりは教育を徹底して、意識の高い人を増やし続けていけば、世代を重ねるごとに解消に向かうだろう、と希望を持っていたように思う。


あれから40年近くが過ぎた。
そしてなんということだろう。
ネットという新規のメディアには、昔と何も変わらない、他者の尊厳を踏みにじる罵詈雑言、古風な言葉とそのバリエーションが今なお乱舞しているのだ。

この40年はなんだったのか。
私は子供の頃、教育を受けた。私は大人になり、私の息子も大人になり、私と同じ世代が孫を持ち始めているはずだ。人権教育は、ずっと続いているはずだ。
なのに、それほどの歲月が過ぎてもなお、何も変わらないのか。

まさかそんなはずもないだろう。成果が皆無だ、などということは断じて無いはずだと思う。

だけど、私の若いころの希望的観測が木っ端微塵になったのは確かだ。それはネットでイヤというほど証明されてしまった。
まぁ本当に気の滅入ること。


2012. 07. 12  
大津の中学で起きた事件の詳細をずっと追っている。
なんととんでもない時代になったのだろう、と思う。

暴行、恐喝、自殺教唆などの事件の内容そのものも酷いが、もっと酷いのは組織ぐるみで行われたと思われる隠蔽や揉み消しだ。
学校と役所に同時にガサ入れが入るという異例の事態になったわけだが、
「暴行容疑で」
という報道はほとんどブラックジョークのようだった。
学校の教諭が暴行したわけではない、もちろん教育委員がそれをしたはずもない。
つまりこれは、容疑の表向きこそ暴行だが、真に問われているのは公務員としての行動や対処の非、だということなのだろうと思う。


だが、私がこの件でもっとも「とんでもない」と思ったのはこの点じゃない。
いじめ、なんぞは40年以上前から存在することを知っているし、社会問題となった30年ほど前から、事態は何も変わっちゃいない。エスカレートするばかりだ。

今回、今までと一線を画してとんでもなかったのは、ネットにおける情報の動きである。

とある個人の詳細情報が、実名から住所から家族構成やその鮮明な写真に至るまで、ことごとく暴かれ晒され流布されるという様を私はリアルタイムで見ることになった。その素早さ、手際の容赦無さ、執念と憤怒と憎悪の激しさに戦慄した。
なにより凄まじいのは、それらが報道や調査のプロでもなんでもない、組織でもなんでもない、素人の個人でしかない存在の手によって成されるということだ。

お互い顔も名も知らない、何の縁もない、隔離された一人一人がネットで情報を提供し合い、検証し合い、アドバイスや罵倒を織り交ぜながら「暴露」という一つの目的のために動き続ける。

スタンドアローン・コンプレックス、孤立しながら共同する集団。
デスクトップ・ディティクティブ、パソコンの前から動かず情報を集め検証することで解明を進めていく行動。

あまりに膨大な情報が、あまりに速く集まる。
暴露という目的があまりに短時間で達成される。

この激しさ、素早さに、旧弊な組織の多くがついていけないだろう。
だとしても、どんなに信じがたくとも、認めるしか無いのだと思う。世界は、大変換期を迎えているのだということを。

綺麗事ばかりのお題目やスローガンや分析や提言や思想や哲学やシステム整備ごときで、イジメという問題をどうにかすることは出来やしなかったのだ。呆れるほどに何も変えられない。

が、この破壊的で容赦の無い
「ネットに集う情報の威力」
で、いずれ世界は否応なく変わっていくのだろう。

学校システムは解体されるかもしれない。
資本主義社会は貧弱になるかもしれない。
議会政治が打ち棄てられるかもしれない。
自由と平等が悪となり、階級社会が是となるかもしれない。

得体のしれない未来。が、こういう常識のでんぐり返った未来にこそ、今まで人類が達成し得なかった知性と思いやりと協調が満ちているかもしれないのだ。

いずれにしてもパンドラの箱であろうけど。
ありとあらゆる破壊、破滅、不幸、厄災、痛み哀しみ苦しみが噴出しはびこり、それでも最後に希望だけが残るだろうと信じねば、とうていやっていけるものではない、と思う。


大津の事件は既に計り知れないほど多くの悲惨と苦しみを生み出した。
そしてこれがきっかけとなって、ますます多くのそれが出てくるだろう。
それはつまり、今まで隠匿されていたこと、スルーされていたことも明るみになるということだ。(今この波に乗れば、数字を稼げると踏んだマスコミもしばらくは積極的に報道をするだろうし、大津の事例に震え上がった関係各所も少しくらいは自浄作用を備えるだろう)


そしてもっと多くの人に気づいて欲しい。
世界が変わってしまうほどの勢いがなければ、イジメ社会などという問題の改善はあり得ないのだ、ということを。


高度情報化社会のシステムばかりが先行し、使いこなす人間の意識の変化がほとんど追いついていない。
この現状は、かつて王の頭上にあるとなぞらえられた「ダモクレスの剣」が、すべての人々の頭上にあるようなものなのだろうと思う。
ほんの些細な判断の違い、あるいは単なる不運1つで、それは真っ逆さまに降ってくるのだ。


2012. 07. 09  
夕食時、マボロシと呼ばれる作品についての話題になった。
「クレクレタコラ」という作品の実存を信じてもらえなかった話。
これは、二人だけで「あった」「ねーよ」とやりあっているところにやってきた第三者が「知ってる」と証言してその場の勝敗は決した、という話だったような。
「快傑ライオン丸」という作品の存在を若人に信じてもらえなかった話。
これは岡田斗司夫氏が語っていたと記憶している。

もちろん私は、このどちらの作品も実存だったことを知っている。特にライオン丸は大好きで毎週観てたしね!

そういう話をしていて、ハッと思った。
マイナーな作品、コンテンツはたくさんあるが、この頃はたいていのものがググれば資料が見つかる。
そして、「ほらちゃんとあるでしょ」と説明することもできるし、良かった、自分の脳内だけの妄想じゃなかったんだ、本当にあったんだ、と安心することもできる。

人間の記憶なんて、本当に実に曖昧なものだ。それは歳をとるほど実感する。
その曖昧であやふやで不確かな記憶というものを固定し、確認出来るものにするための資料。
人間はそれをとても求める。
記念の品、というものだ。写真であるとか、テキスト、映像、ありとあらゆる思い出のヨスガ。

が、高度情報社会において、人間は可能な限り記録をデジタルに置き換え始めている。
次に来るのは記録をクラウドに置き換え、手元をスッキリさせる流れだろう。
何処かヨソにデジタルの形でデータを保管してさえおけば、身辺が物で散らかることもないし、検索や引用も楽だ。

が、この流れには大きな落とし穴があるはず。
繰り返すが、記憶というのは曖昧な想念でしかない。
なんでもかんでもネット上に保存し始め、なんでもかんでも検索でデータを引っ張れば済むようになってしまったら、人間は記憶する手間というものを惜しみはじめるだろう。
甚だしい場合は、記憶というものはネットに存在を裏付けてもらうもの、という状態になってしまうだろう。

「****ってあったよね?」
「なにそれ、しらなーい」
「あったよぉ、ちょっとまって調べるから……あれ? 出ないなぁ」
「そんなもの知らないよ、夢で見たナニカじゃない? 記録無いでしょ」
「うーん、そうかも。そんな気がしてきた。何かと間違えたかなぁ」

こんなことが頻繁に起きるだろう。

さらに言うなら、徹底的にデータを消去、改竄していけば、確かに存在したはずの事実も何もかも、
「そんなものは無かった」
ということにしてしまうことも不可能ではないということ。社会的抹消。なにもかもをデジタルデータにしてしまうというのは、そういうことだ。

さらに逆に考えれば、
「ありもしなかったこと」
を事実として社会に認識させることも同じ。歪曲された情報や捏造のコンテンツを実存と信じさせることも容易くなる、ということに他ならない。

高度情報社会を、私は歓迎している。それは私が、好奇心過多なくせに頭が悪く、しかもボケ始めているからだ。
が、高度情報社会を万全に信頼もしない。
というより、人間はそのシステムを万全に使いこなせるのかどうか? 実に疑わしい。
どっちかというと堕落しまくる可能性の方が高いのじゃなかろうか。

メディアの保存や利用を、断じてデジタルのみにしてしまってはならない。
人間が自分の頭を使って記憶し、考えること。
人間が自分の手や指を使って記したり描いたりすることを、断じて手放してはならない。
なにもかもをシステムに丸投げして頼り切ってしまうことは、人類文明を大暗黒時代に導く黄泉平坂でしかないだろう。


え?

別にデジタルだの高度情報だのが無い頃から人の世は、黒を白と言い換え、捏造を事実とし、有った無かった、やったやってない等々の際限ない泥仕合に明け暮れているって?

ええ、本当にそうですね。そしてそれは高度情報社会と化した現在、ますます猖獗を極めているようですね。

2012. 06. 25  
私の親の世代には、戦争中の体験を武勇伝として語る人が居た。
もちろん、大層ウザかった。

この頃は、安保闘争などの学生運動の体験を武勇伝として語る人が割りと居て、若い人たちにウザがられているそうな。
上の世代がドヤ顔で語る武勇伝なんぞ、漏れ無くウザいものだろうとは思うのだけど。

私の世代、武勇伝なんてあるだろうか?
オタクになら若干はあると思う。銃剣振り回したり、ゲバ棒振り回したりなどという荒事チックな勇ましいものではないけれど、周囲の無理解や蔑視をものともせず、既存の価値観にキッパリと背を向けて、己が価値ありと信ずる好ましい世界の探求と創造に邁進してきた、というささやかな誇りくらいは同世代のオタクなら大なり小なり持っていると思う。
とはいえ、それを尊大な態度で若いオタク相手に振りかざしたりした日には、思いっきり嫌われるのは当然でしょうな。老害なんて言葉は伊達じゃない。

オタクじゃない同世代の人達の武勇伝って、どうなるんだろう? バブル時代にあんなことしたコンナことした、あるいは学生時代にこんなに猛烈に遊びまくった、みたいな感じになるのだろうか。んー、ちょっと想像つかない。

その下の世代になると、どんな武勇伝になるのやら。
もしかして、コンピューターゲームが共通意識のベースになるのかもしれない。あんなプレイをした、こんなにやりこんだ、的な自慢のしあいが武勇伝代わりなのかも。ゲームのキャラがアバターとなって、文字通り様々な戦いを繰り広げ、世界の危機を何度も救っているわけなのだから。

そしてさらに下の世代になると、それがもっと先鋭化しているかもしれない。対戦ゲーム、ネットゲームの登場で、リアルな存在が相手の対人戦が生活に入り込んでいたろうから。


さて、それよりもっと更に下の世代。今、学生をやっている世代。
さぁ、果たして彼らにどんな武勇伝があるのか。
武勇伝。
それはすなわち、世代間共通体験、共通知識に基づいた自慢という名のコミュニケーション。
今の学生にとって、そのネタは何だろう?


これが、どうやらほとんど無いも同然らしいのだ。
デジタル・ネイティブと呼ばれる世代。生まれた時からインターネットとデバイスに親しみ、行動情報化社会を当然として生きる世代。
彼らにとって、情報や趣味、コンテンツの選択肢はあまりに多い。
なので

「みんなが観ているから自分も観なくちゃ」とか
「とても話題らしいから知らなくちゃ」とか
「これに乗らなきゃ置いてけぼりにされちゃうから」とか

そういう意識で物事を選びとる、という行動原理をあまり持たないらしいのだ。
あくまで自分個人の気持ちを第一に、自分独りの好みを大事にし、流行っているからといって興味の無いものに飛びつくような手間をかけない。
そんなに「他のオススメ」なんぞに貪欲にならずとも、いくらでもコンテンツは溢れているのだから。

ある意味、豊かさこそが人を孤立させゆく、という状況なのかもしれない。
知らない者同士が顔を合わせ、なんとか会話を成立させてゆく共通イメージ、共通意識みたいなものがどんどん希薄になって行く世界。
それが行動情報化社会が必然として持つ側面であるらしい。

そういうことに漠然とした危惧を抱きながらボーッと考えていたら、キッパリとした予感が閃いた。
遠からず、宗教が復権するだろう、という予感。
人間は人間である以上、他者との安定した共通意識無しでやっていけるものではないから。
とことんまで希薄になった次に来るのは、絆や相互救済を求める怒涛のごときムーブメントだろう。

既存の宗教の復権、あるいは一見宗教にはまったく見えない新興のシステムの勃興。このどちらか、あるいは両方が遠からず潮流となってやってくるだろうと思う。


願わくば、それらが伝統的なボッタクリ構造をそのまま引きずって現れる、なんてザマじゃありませんように。

2012. 06. 24  
iPadなんて便利デバイスが手元にあると、ついついネット徘徊ばかりしてしまう。

今日は特に楽しい物件に出会ってしまったので拡散したいのだった。

コレ↓
「四次元殺法コンビの秀逸なコピペ貼っていく」

次から次へと繰り出される名言の数々。思わず人生が軽やかになりそうだった。

私的トップワンは、やっぱこれかな。


良い子の諸君!
平等が云々と主張する奴はみな自分よりも
上の人間との平等を求めているだけだ! 
こんなんだから世界はいつまでたっても格差社会なのだ!
まあ本当に平等にされたらたまったもんじゃないがな!
 


人間に平等というものがあるとしたらばそれはたった一つ。
生きてるからにはいずれ死ぬ、この一点のみだろうと思う。

いや、たぶんさらにもう1つ。
生きるためにはコストがかかる、ということも。

必ず死ぬからこそ、人間は必死に生きようとする。(なにやら言語として妙な気もするw)
必ずコストがかかるからこそ、奪い合いが起きる。あるいは取り引きをする。そして不足分を埋めようとする。さもなくば死ぬ。弱いものから死んでゆく。

どこに富があり、どこに得があり、どこに差異があるのか。それを意識するのが人間の本能。
平等なんぞ、実は誰も求めちゃいないのだ。
平等という言葉の真実は、

「自分の値打ちが下がらない状態」

たいていの場合はこれに尽きる。

だからこそなのか。
人間は、自身の価値や生命を無くしてでも、誰かのためにそれを使おうとする人が大好きなようだ。
そういう物語が大好きなようだ。
そういう行為は、多くの場合「愛」と呼ばれる。
みんな愛が好きだよね?
つまりはみんな、平等なんか実は嫌い、ということ。

いやそうじゃない、そんなの間違ってる、ということならば。
愛と呼ぶモノの定義から問い直さないとね。あるいは平等の意味を。

高いは低きに流れ、エントロピーは常に拡大し、すべては均衡を目指し、やがて一切合切が熱的死に至る。
宇宙がそこまでいってようやく、平等の名に相応しいものが顕れるのかもだし、平等すなわち死なのかもしれないわな。

2012. 06. 18  
あるTweetを目にした。

「女性アイドルの異性交遊が発覚すると、ファンの男性はアイドルを攻撃して、彼女の相手の男には攻撃しない。
これが男性アイドルだった場合、ファンの女性はアイドルではなくて相手の女性を攻撃する」


うううむ。
これが一般的な事なのかどうかは正直よく判らない。

でも、ある古い怪談を思い出した。

昔々、とても睦まじい夫婦が居た。
が、妻は病に倒れた。今際の際に彼女は夫に頼みごとをする。
「私が死んだら家の庭に葬ってください、お願いですから他の誰とも結婚しないでください」
妻を深く愛していた夫は、彼女との約束を守って、庭に墓石を建てた。
しばらく悲嘆にくれていた夫だったが、しばらくして後添えを迎えた。
新しい若い妻は、庭に前妻の墓があることを僅かに不気味に思ったが、夫は哀しみを忘れたかのように新妻である自分を慈しんでくれたので、幸福だった。
ところが。
女の霊が枕元に立ったのである。
霊は言う。
「この家から出てゆけ、あの人の妻は私だけ」
その話を聞いた夫は驚き、対策を講じたが、護衛むなしく新妻は前妻にとり殺されてしまうのだった。


題名などは忘れたが、大体こんな感じの話だったと思う。
この話の作者は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。人づてに聞いた話、となっていた。

「おかしいじゃないか、前妻が責めるべきは約束を破った男のほうであって、新妻になんの罪があるのか」

と彼が問うと、語り手はこう言ったそうだ。

「男ならそうかもしれませんが、女の考えは違うのです」


そういえば、源氏物語においても、ツンデレ中のツンデレ、プライド高き六条御息所は存命中は生霊となり、死後は悪霊となり、源氏の妻たちを次から次へととり殺していくのだったっけ。
が、源氏本人をとり殺したりはしないのだった。それなりに恨み言は言うけれど。


なんにしても、男は女を、女も女を憎み責めるパターンってことになる? だとしたら女の立場ってやっぱ弱いわな。
それが、男性あるいは女性の本能に根ざした反応に拠るパターンなら、ってことだけど。

愛する異性が自分以外の同性と通じた場合、憎みたくなる相手はどちらか。
本当に、男は異性を、女は同性を攻撃しがちなのか?

逆のパターン例がどれだけあるかも、ちょっと検証したいところではある。

2012. 06. 17  
テレビやラジオは苦手だ。
ネットで情報を得ることに慣れてしまうと、決まった時間にしかアクセス出来ないメディアが疎ましくなる一方だったのだ。

が、最近は家事をしながらラジオを聴くことが増えた。ただし、ネット経由で。ポッドキャストなどのストリーミング放送。これなら自分の都合の良い時間に聴ける。
伊集院光氏やアニラジや小島慶子さんのyoutube放送などなど、雑談系を中心に聴いていたのだが、最近はNHKのポッドキャストニュースも聴くようになった。

朝、昼、夜のニュースをすべて聴くと

「なんか、今日も同じようなニュースばかり繰り返しているなぁ。平和だなぁ? ん? 朝も昼も夜も同じ情報を繰り返す割には、今日可決された法案のことは言わなかったりするなぁ? なんでだぁアアん? ダウンロード違法化とかリッピング違法化とか、国民全部に広く影響深い事例のはずだわなぁ、なんで言わないのかなぁ、なんかよっぽど騒がれたくない裏事情でも、あんのかアアん?」

などと頭上に疑問符を撒き散らしながら掃除したりするハメになったりしている。

そんななか、つい先日。私はとある勘違いに気づいてしまったのだ。
福島原発のニュースだったと思う。

「げんしりょくはつでんしょの、たてやの、云々」
というのを聞いて

おひおひ、たてや、じゃないっしょ、そこは

げんしりょくはつでんしょ けんおく    だろー  

「原子力発電所 建屋」 なんだからさー

などと思っていたのだった。
が、ニュースはなんども「たてや」と繰り返している。
なにか変だな? と思い「けんおく」でググってみる。

結果


げげげげ。

Googleによれば「けんおく」なんて日本語は存在しないことに!
じゃ、私は人生50年、ずっとずっと「たてや」と読むべきところを「けんおく」だと信じて疑わずずっと生きてきたってこと? 
ギャース。なんという恥。
こんな赤っ恥、ハタチの頃まで「天津甘栗」を「あまつあまぐり」と信じていたことが仲間内にバレ、思いっきり馬鹿にされて以来だわな。

しかし、なんだって「けんおく」だと信じていたのかな。解せぬ。
ふと思いたち、「建屋 けんおく」でググってみた。

結果

むむ、一応日本語として存在しないわけではなかったようだ。ちょっとホッとする。

げんしりょくはつでんしょ けんおく 

という呼称も皆無では無かった模様。
ただ、その辺り、私には本当にさっぱり判らないのだ。けんおく、と耳で聞いたからこそ、そう読むのだと思い込んだはずなのだけど。
何時から「たてや」で統一されたのやら? うーん、さっぱり判らない。

大震災、原発事故という未曾有の災害に震撼してすら、テキストで得るニュースばかり求めて、テレビ・ラジオなどのマスメディアの報道をとことん嫌い抜いていた自分の生き方を、大いに問題視しないとならないなぁ、と油汗を流したわけなのでした。

プロフィール

星 ゆう輝

Author:星 ゆう輝
人生50年、オタク歴40年弱、母親業四半世紀。老眼とボケが迅速に進行中。麗しいロボ執事をはべらせるのが老後の夢。

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